13 選択
篝火が最後の火の粉を地に落とし、一筋の煙を樹海の夜気へと滲ませる。闇が満ちた枯れ井戸の周囲には、数多の精霊が戻ってきていた。
「こっぴどくやられたなぁ、ユーゴ」
「べつに。かすり傷さ」
「嘘だ。ヴァンが来るまで、痛いだのなんだの言っていたじゃないか」
「ばっ、……!」
「だめだよイネス。兄のめんつを保ちたいから黙ってて、って言われたでしょ」
「こら、とどめを刺してやるな」
「え?」ときょとんとするエイムに、ヴァンとイネスが同時にふき出した。「ばらされちまった」と苦笑しながら、照れ隠しをするように、ユーゴは長髪をがしがしと掻き上げる。
穏やかな時が流れていた。それは母を喪ってから久しく感じていなかったもので、気を抜くと鼻の奥にすんとするものが込み上げてしまう。ああ、まずいぞ、と上を向くと、樹葉の天蓋に縁取られた、高く澄み渡る夜空があった。
懐かしい――そんな気がしてしまうのは、気のせいではないのだろう。記憶も残らぬ幼き日に、こことよく似た
「おい、粛清官」
そう呼ばれ、ヴァンは咄嗟に
「おまえ、あのときの……!」
ユーゴがヴァンを樹海から逃がそうとしたときに遭遇したエルアの戦士、レイモンである。
むすりと唇を引き結んだままヴァンを見据える彼の目は、少々赤らみ、腫れぼったい。かけられた声は鼻声であった。
「……絶対に、嘘だと思ったんだ」
「なにが?」
「『密猟されたエルア族を連れ戻す』って話」
「……すまない。結局、密猟されたひとは助けられなかった」
密猟されたエルア族は、異端者たちに骨も残さず喰われたあとであった。心苦しさに顔を曇らせたヴァンであったが、レイモンは「いいや」と頭を振る。
「別の形になったかもしれないが、あんたは約束を守った。そのおかげで、
なにやら気まずそうに口籠ったレイモンが、しかし思い切って口を開く。
「ありがとう。……あのときは、殴って悪かったな」
予想もしなかった言葉に、エイムと顔を見合わせてしまった。「気にしてない」と頭を振ると、レイモンは泣き腫らした目を隠すように視線を逸らす。そのままぐるりと周囲を見渡し、訝しげに眉を顰めると、「ジスラン・グラースはどこだ?」と問うた。
「エルア奪還の計画はやつが立てたらしいと、兄貴から聞いたんだが」
「まだ地下にいるよ。話があるなら、呼んでこようか?」
エリーの説得が済んだあと合流したジスランは、彼を見張ると言ってそのまま地下に留まっている。マルセルとも合流したが、「後始末がある」と言い、すぐにどこかへと行ってしまった。そういえば、計画を助けてくれた〈
「いや、いないならいい。……会ったら殺したくなりそうだ。あんたから伝えておいてくれ。今回だけは、世話になったと」
「わかった。ちゃんと伝える」
「あとな、おまえは粛清官を辞めろ」
「え?」
「……似合ってねえから」
そうぶっきらぼうに言い捨てて、レイモンは踵を返して兄のもとへと戻っていく。その背を見送りながら、ユーゴとイネスがくすりと笑った。
「素直じゃないな」
「まったくだ。『ヴァンとはもう戦いたくない』と、はっきり言えばいいものを」
「でもレイモンさんの気持ち、僕わかるなぁ。実際、ヴァンはどうするつもりなの?」
「辞めようと思ってるよ。俺も、もうエルア族と戦いたくないからな。母さんの指環も取り戻したし、急いで金を稼ぐ理由もない」
そう答えながら、胸元にある母の指環を指先でそっと触れる。その何気ない仕草を見たユーゴが、「……じゃあさ」とおずおずと口を開いた。その手はヴァンと同じように、胸元にあるものに触れている。
二本の蔓が螺旋を描く、流線型の優美な円環――ヴァンの持つ
「樹海に、帰ってくるか?」
(……帰る?)
考えてもみなかった選択肢に、どくり、鼓動が高鳴った。
「簡単なことじゃないってのはわかってる。婆ちゃんが反対するかもしれないけど、
言葉が胸につかえて、答えることができなかった。揺れた
「樹海はきみの生まれ故郷だもの」
「私たちは同胞なんだ。ともに生きる道もある」
応えに惑ったそのとき、一陣の風が吹いた。心地よい樹海の息吹。郷愁を呼び起こすその風は、胸裡に潜んでいたある願望を思い出させた。
(そうだ、俺……ずっと、帰りたかったんだ)
――おかえり、ヴァン。
縁谷地の小さな家でエイムがそう言ってくれたとき、せつなさに胸が詰まった。奪われた指環を取り戻さなくてはという使命感の裏側で、母と過ごしたような穏やかな日々の再来を望んでいた。ユーゴの誘いは、その願望の、ひとつの答えであるのだろう。
(……でも)
つと枯れ井戸を振り返る。すべての事がすんだなら、朝課の鐘とともに開く南門から、〈
(自分でも、……びっくりだ)
そう、嫌ではないのだ。
「ユーゴ、俺は――」
*
はっと目を覚ましたとき、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
「くそ、痛ってぇ……」
頭の奥がずきずきと鈍く痛み、胃がせり上がるような吐き気がする。石造りの天井に揺らめく松明の影をぼんやりと眺め、それらの不快感をやりすごしていると、次第に背に違和感を覚えた。なにやら、湿っている。いやに血生臭いのだ。ふと視線を横に流して目にしたものに、ロバールは戦慄した。
「――っ、ジョ、ジョス……!」
顔見知りの修道士が、うっすら目を開けたまま絶命しているのだ。その喉元には穴が開き、粘り気を帯びた血の塊が、どろりと地面へ垂れている。
背の湿った感覚は、ジョスの血溜まりの中に倒れているからなのだ。そう判じた瞬間、自分がどこで、なにをしていたかが、ぶわりと脳裏に蘇る。咄嗟に身を起こすと、頭を強く殴られたせいか、ぐにゃりと視界が歪んだ。
「う……、ち、くしょ……! あのエルアの兄ちゃん、なんで……」
血溜まりを這い出し、壁に縋ってなんとか立ち上がる。
一時は優勢であったのに、ユーゴに血で目潰しを喰らい、返り討ちにあったはずだった。完全なる敗北を喫したのに、己はこうして生きている。なぜ
「いや、いまは……そんなこと、どうでもいい……!」
もぬけの殻となった牢を目の当たりにして、ロバールは焦燥に駆られた。金払いのいい〈翼生会〉へ戻る好機と判じてしまい、ジスラン・グラースとの約束を反故にした。そのうえ〈翼生会〉の秘密をべらべらと喋り、侵入者を案内したばかりか、捕獲済みのエルア族をも逃がしてしまった。
逃げなければ、殺される。――ジスランにも、〈翼生会〉にも。
石壁のくぼみに差し込まれていた松明を引き抜くと、修道院方面への通路を進み始めた。足元が覚束ない。地面が波打つように揺れている。それでもなんとか壁に縋って進んでいくと、ある分岐路に差しかかった。松明を掲げ、修道院への道を示す花の彫像を探そうとして――炎に晒し出されたものに、ロバールは息を呑んだ。
「セド! 嘘だろ……!」
血濡れた花の彫像にもたれて、セドリックが
足を縺れさせながら地下通路を走り抜け、墓所併設の礼拝堂への階段を駆け上がる。目立つ松明を捨て置くと、修道士らに気取られぬよう乱れた呼吸を噛み殺す。そうしてひとり、闇に乗じて修道院から逃げ出したのだった。
町の中心部へと戻る真っ暗な道を走りながら、ロバールは朝までどこに身を潜めようかと思案を巡らせた。朝課の鐘が鳴れば、市門が開く。市外区に出ることができれば、市井の喧騒に紛れ、追手がかかっても逃げ切ることができるはず――
そこまで考え、ぞくりと怖気が走り、足を止めた。
なぜこうも簡単に修道院を出られたのだ。門番はどうした。なぜいない。いいや、俺が気絶させたじゃないか。そのあと門番になりすましたのは、ジスラン・グラース直属の――
「馬鹿だな」
背後から声がした。同時に、首にひやりとした硬いものが押し当てられる。短剣。喉を切り裂かれる寸前の危うい感触に、恐怖で身体が硬直した。
「せっかく贖罪の機会を与えたってのに、反故にするとはね」
「お、おま、……その声は」
「声だけで俺がわかるか」
耳元でくつくつ笑う男の声にぞっとする。
「マ、マル……、マルセル・ガルディア……!」
「おまえは叩けばまだまだ埃が出そうだ。今度は雑貨店での尋問みたいな、手ぬるいことはしないぜ」
「あ、あれで、手ぬるいだって?」
「子供の目があったからなぁ。覚悟しておけよ、密猟者」
周囲の闇がざわりと動き、四つの気配が近付いてくる。この〈犬〉らは、〈翼生会〉の領域から、獲物が出てくるのを待っていたのだ。エルア族をめぐる一連の騒動から逃げ出そうとしたはずが、猟犬の群れに自ら飛び込んでしまった。
「我が
短剣の代わりに素早く腕をまわされ、ぎりと頸を締め上げられる。手足は〈犬〉らに抑えられ、抵抗することもかなわない。
嫌だ。なんで俺が、こんな目に――
見開いた眸は、漆黒に塗りつぶされた夜を見るともなく映す。
耳奥でどくどくと血が流れる音が膨らむ。
やがてすべてが遠ざかり、夜と己の境が消えた。
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