2 血縁
「聞いてない」
「はあ? 言っただろ、孤児だった俺を買ったのは粛清官だって」
「そうだけど、その粛清官が『ジスラン・グラース』だなんて聞いてない!」
東の空がたおやかに色づき始める明け方頃。市外区北部の
捕えた粛清官から人相と名を聞き出したのか、あるいは迎霊官の守護任にあたるジスランと直接対峙したことがあるのか。「粛清官の親玉じゃないか」と警戒もあらわに後ずさり、太腿に括った短剣に手を伸ばした。
「……だれだ、その男は」
敵意を察し、ジスランも剣の柄に手を伸ばしながらヴァンに問う。
「樹海に行ったんじゃないのか? てっきりエルア族を連れてくるのかと思っていたが」
「こいつはエルア族だよ」
「なに?」
「身体に宿した精霊を解放すると、ペルマナント人の姿と同じになるんだ。翼や木面皮があったら、教国に入れないだろ?」
「それはそうだが、……そんなことができるのか」
「本来なら絶対にしない。精霊解放は、エルア族にとって自死と同義。恥ずべき行為とされている」
ユーゴは短剣に触れかけた手を止め、そう答えた。沸き上がる憎悪に蓋をするように、関節が白くなるほど強く拳を握り締める。ユーゴにとって粛清官は、同胞を屠る敵であり、なにより本当の両親の仇なのだ。その長であるジスランもまた、憎しみの対象であるのだろう。
「……死に等しい行為であるのに、その姿になったのか」
訝しげにジスランがそう言えば、ユーゴは憎悪とはまた別の、複雑な情動に顔を顰めて「そうだ」と答えた。
「エイムを助けに行くためには、こうするしかなかった。それに……矛盾に聞こえるだろうが、俺がエルア族であるためには、必要なことだった」
深く息を吸い、吐く。そうして気を鎮めてから、「ほんとうに、こいつは敵じゃないんだな?」と、ヴァンに問いかけた。
「大丈夫だ。今回だけは、信頼できる味方だと思ってくれ」
「……わかった。おまえが、そう言うなら」
ジスランに向き直ったユーゴが、すっと背筋を伸ばし、居ずまいを正す。
「俺は、エルア族族長ポト・シュマンが孫、ユーゴ・シュマン」
額の高さで指を組み合わせ、両腕で輪を形作る。ユーゴの出自に驚いているジスランとしかと目を合わせてから、慇懃に膝を折り、礼を示した。
「粛清官の長、ジスラン・グラース殿とお見受けする。これまで不和が生じてきた経緯がある中で、此度の同胞奪還へ尽力いただいたこと、まことに感謝申し上げる」
夜襲で荒れていたはずの陋屋は整えられ、休息に必要なものはすべて用意されていた。
敷物、やわらかな寝具、清潔な衣服、そして食料。〈
「俺はマルセルに合流する。修道院侵入の手筈を整えているから、準備が済むまでここで休むといい」
ジスランが陋屋を去ると、ヴァンはつい安堵の息を吐いたのであった。
「いやぁ、焦った。斬りかかっちまうかと思った」
食料の入った袋を開きながら暢気に笑うと、ユーゴにばしりと頭を叩かれた。
「ふざけんな。先に言っといてくれよ! びっくりするだろうが」
「エイムには伝えてたから、もうてっきりおまえも知ってるものだと」
「くそ、なんだって族長の孫が、よりにもよって長官の養子なんだ!」
「まあ色々あったから……悪かったよ。ほら、飯でも食って機嫌直そうぜ」
そう言って、ヴァンはどっかと腰を降ろすと、袋の中身を取り出しはじめた。パンと、塩漬け肉の包みと、チーズにプラム。手軽に食せるそれらに加え、蜂蜜の小瓶やナッツも用意されている。
ヴァンが食事の支度をするあいだ、ユーゴは薄暗い室内をきょろきょろと見回していた。なにを探しているのかは、聞かれずとも察しはつく。
「そこの床に、他よりも黒ずんでる血の染みがあるだろ? そこが、母さんが殺された場所だ」
夜襲で切り伏せた男の真新しい血痕の中、ひと際黒ずんでいる床を指差して言う。ユーゴはその縁で膝をつくと、エイムがそうしてくれたように、鎮魂歌を歌い、祈りを捧げてくれた。澄んだ
歌声に耳を傾けながら、ヴァンは塩漬け肉を引き寄せ、ナイフで薄く切り分けた。それをパンの上に乗せ、かぶりつこうとして――やめた。鼻先に漂う古い脂のにおいを嗅ぎながら、歌い終えたユーゴにこう問いかける。
「なあ、さっき精霊解放を『エルア族であるためには必要なことだった』って言っただろ。あれどういう意味だ? ……族長、すごい泣いてたぞ。おまえが死んだみたいな泣き方だった」
「みたいじゃない。死んだんだよ、俺は。婆ちゃんのなかで」
深い溜息を吐いてから、ユーゴは立ち上がり、ヴァンの隣に戻ってくる。敷物の上に腰を下ろすと、蔦の絡まぬ長髪に指を通し、その慣れない感触に眉を顰めた。
「さっきも言ったが、精霊解放はエルア族にとっての自死だ。……唯一残った
「なんか、いまさらだけど……俺、とんでもないことしたか?」
かっとなると止まらない、言いたいことは言わねば気が済まない。そんな性分が引き起こした現状に、急な居たたまれなさを覚えたのだが、ユーゴは「自分で決めたことだ」とからりと笑った。
「それに、おまえの言う通りだと思ったんだ。エイムも、シャンタルも……どんなにエルアのさだめた道を外れていようが、同胞を想う心は紛れもなくエルア族だった。いちばん身近にいる俺が気付いてやらなくちゃいけなかったのに……敵であったはずの
木面皮を失った手をしげしげと眺める。これが己の手であることを確認するかのように、ゆっくりと拳を握った。
「俺はさ、いままでずっと婆ちゃんに逆らえなくて、ここを歩けと用意された正しい道しか見てこなかった。だけど、あるんだ。シャンタルや、エイムが歩いてきたような道が。それを間違ってるだなんて言いたくないし、思いたくない。ふたりは同胞なんだって、胸張って言えるエルア族でありたいんだよ」
「……そっか」
「そのためには、俺はずっとないがしろにしてしまったエイムを助けなきゃいけない。なんだってする。それこそ、仇と手を組んででもな」
肉を乗せたパンを受け取ると、ユーゴは仇が用意した食料に一瞬躊躇し、しかし思い切ってかぶりついた。硬いパンと、薄切りでも歯ごたえのある肉を飲み込んでから、ほんの少し頬を和らげる。
「おまえには感謝してる。ひとり谷に戻って、命がけで訴えてくれたから、俺はやっと踏み出せたんだ」
「大げさだよ。俺は命をかけてるだなんて、これっぽっちも思ってなかったぜ?」
ナッツを摘まみ上げ、指ではじいて宙に飛ばす。落ちてきたそれを口で受け止め、小気味よい音を立てて噛み砕いた。
「ユーゴは一緒に来てくれるって、信じてたからな」
「……おい、まさか、俺が来なかったら自分がどうなるか、考えなかったのか?」
「考えなかったなぁ」
「む、無謀だろ……」
「後先考えるのは苦手なんだ」
「早死にするぞ、おまえ」
そう言って、ふたりは同時にふき出した。
けらけらと笑うユーゴの顔に、どこか懐かしさを覚えた。木面皮のない顔をよくよく見れば、眸は自分と同じ翠眼で、笑った口元は母に似ているような気さえする。ああ、血縁なのだ。そう思うと、得も言われぬ温かなものが胸に満ちた。
「あ、なあそれ。もしかして、シャンタルの指環か?」
笑って身を揺らした拍子に、首にかけていた指環が襟元から覗いたようだ。「見せてくれ」と言われ手渡すと、ユーゴは窓から射し込む光に指環を翳した。鴇色の朝陽を照り返す、亡き育ての母の結婚指環。それを見るまなざしは、はじめは過去を懐かしむものであったのだが、徐々になにかを訝しむようなものになる。
「なんだよ、どうかしたのか?」
「いや、なんか、なんだろう。もしかして、これ……」
指環の表面を確かめるように撫で、両手できゅっと握り込む。それを額にあて、集中するように息を詰めたあと。
ユーゴがはっと瞠目した。喜色が滲む頬が、徐々に緩んでいく。
「ヴァン、この指環……――」
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