7 決意

 重く垂れこめた曇天にその青い点を見つけたとき、沸き上がったのは喜びではなかった。

 まっすぐユーゴの肩に舞い降りた知音鳥イロンクールは、一通の手紙を咥えている。受け取って首元を撫でてやると、満足したように飛び去って行った。エイムの家の軒下に拵えた巣へ、羽を休めるために帰るのだ。

 幼い家主は、不在であるというのに。

(……俺は、いったいなにをしているんだ)

 〈銀の谷エタンセル〉の奥地に聳える、いっとう巨大な螺旋木――精霊の揺籠たるめぐりの樹。そこで精霊を育む儀式を取り仕切りながら、ユーゴは息苦しさに喘いでいた。歌を止めるわけにはいかない。謡士ようしらが知音鳥の来訪を気にしながらも、なおも歌を紡ぎ続けているのだ。みなを導く森路シュマンである己が、これ以上のを晒すわけにはいかない。

(失態? なにが、どこからどこまで、俺は駄目だった?)

 族長ポトを失望させたことか。

 濁血エイムを拾い育てたことか。

 それとも、裏切り者シャンタルを母と慕ったことか。

 短い息継ぎの合間にも、喉が引き攣るようだった。知音鳥が運んできた、教国へ潜入したエイムからの報告書を握り締め、懸命に歌声を絞り出す。

――もしも僕が失敗して帰ってこなくても、だれも困らないでしょ?

 困る、と、即座に返してやれなかった。

――自己満足にあの子を利用するなよ。

 違う、と、そう即座に反論してしまった。

(……矛盾だ。シャンタルへの贖罪じゃなく、エイム本人を大事と思うなら、俺はあいつを行かせてはいけなかった。だけど)

――ゆめゆめ、己が立場を忘れるな。

(濁血を大事と言ったなら……俺は、森路たりえない)

 幼い頃から刷り込まれてきた祖母の呪いが、ユーゴの足に絡みつく。定められたこの場所から一歩たりとも動けずに、いつも通りの歌を歌い、いつも通りの儀式を行って、死地に赴いた少年からの、吉報をただ待つばかり。

(……俺は、いったいなにをしているんだ)

 再度問う。問うてはいるが、己が心はすでに答えを持っていた。

 

 そうそうと流れる瀬音に似た樹葉のゆらぎが、罪悪感を押し込めた歌声を攫っていく。精霊の瞬きは憐憫を宿し、幾千の泡沫となって空へと昇る。中天の陽を覆い隠す鈍色の空は、水底から臨む水面のようであった。

 ここは、深い、深い、樹海の底。溺れてしまいそうな錯覚に陥る。いっそのこと、溺れて藻屑と化したいのかもしれない。そうすれば、この胸にわだかまる息苦しさも、自己嫌悪も、なかったことにできるのだから。


     *


 指環を翳し、向こう側を覗き見る。

 環の内側。その狭小でまどかなる世界に座しているのは、茜に暮れなずむ光の影と、樹葉に宿る淡い闇。目をこらせば、雲の切れ間にちいさな星屑が瞬いていた。

「よかったの? 言わなくて」

 陋屋ろうおくの軒下で、壁に背を預けながら空を眺めていたヴァンに、エイムがそう問いかけた。

「シャンタルさんはエルア族なんだって」

「言ってどうする。ジスランが知ったところで……いいことなんか、なにもない」

 伝えてしまえば、生真面目なジスランは衝撃を受けるだろう。酒場の歌手シャンタルとの思い出にひびを入れ、養子ヴァンに同族殺しをさせたという、罪悪感を抱かせる。

「べつに、あえて苦しませたいとは思わないから。なんなら、知らないほうがいい」

「そっか。……それもそうだね」

――すべてをつまびらかにすることが、最善だとは思わない。

 口論をした日、受け入れ難かったジスランの言葉が、いまならなんとなくわかるような気がした。

 風が雲を押し流し、僅かに覗いていた夕空が消えていく。指環に縁取られた世界には、再び分厚い曇が垂れ込めた。

(俺にとっての世界は、こんなものだった)

 母を喪ってから今日まで、この環の内側のような窮屈で息苦しい日々を、ひとり彷徨い歩いてきた。

(でも)

――なにがあったんだ? いやそれより、痛いところないか?

――……無事に帰ってきてくれて、安心した。

(そうじゃなかったのかもしれない)

 翳していた指環を降ろし、握り込む。

 枠を失くした空は、不穏で、不明で、果てなく広い。それでも、――孤独ではない。

「手紙、ユーゴにちゃんと届いたかなぁ」

 となりでぼんやりと空を眺めていたエイムが、ふとそんな言葉を洩らした。

 ヴァンの養父の助けを得て、密猟者を探す手筈を整えた――という経緯を手紙にしたため、知音鳥に託したのだ。動向のこまめな報告は、族長から直々に下された役目である。はじめて同胞の役に立てると意気込んでいたのに、いざ手紙が手元を離れた途端、不安が押し寄せてきたようだった。

「大丈夫さ。だっておまえの鳥は、ちゃんとジスランを呼んできてくれたじゃないか。ユーゴに届かないはずがない」

「うん……わかってるんだけど、なんだか落ち着かなくって」

 寝癖のついた髪を撫でつけ、しょぼつく目元をこする。ジスランの促しに従い仮眠を取ろうとしたものの、うまく眠れなかったようだ。

「僕、ちゃんとみんなの役に立ててるかな?」

「当然。言いつけ通り、ちゃんと報告もしたじゃないか」

「もしも、もしも事がぜんぶうまくいって、同胞を助けることができたら……濁血サレの僕でも、認めてもらえると思う? そうしたら、ユーゴと一緒に……」

 みなまで言わず、零れ出た願望を恥じるように、エイムはかぶりを振った。「やっぱり、なんでもない」と言って、ふにゃりと頬を緩ませる。しかし無意識なのか――彼の両手は服の裾を、皺がつくほど固く握り締めていた。

(俺には何度も手を差し伸べてくれたのに……自分からは、求められないのか)

 そう思うと、無性に腹が立ち始めた。自分のことを「やさしくなんかない」と卑下したときと同じ、曖昧に笑いながら自分の心を誤魔化している。

 不安を隠し、怖いとも、寂しいとも言い出せない。ひとり抱え込んで平気なふりをするのは、きっと彼の癖なのだ。どれもこれも――寄る辺であるべき者が、そばにいないから。

(なにやってんだ、ユーゴは)

 胸裡で文句を言いながら、エイムの癖毛をくしゃりと撫でる。驚いたエイムが顔を上げたところで、わしゃわしゃとより強い力で撫でまわした。

「な、なに? どうしたの」

「あいつめ、今度会ったらただじゃ置かねえ」

「えっ、それユーゴのこと? なんで?」

「もう決めた。止めても無駄だ、絶対一発ぶん殴る」

「どういうことなの? わ、わ、待って、髪が絡まる」

「俺、密猟されたエルア族を助けるから」

 はっきりそう言い切ると、戸惑っていたエイムがぴたりと動きを止めた。ユーゴの態度も、濁血の扱いも、ヴァンひとりでどうこうできることではない。けれどもいま対峙している密猟の件だけは、唯一、自分がエイムの支えになれることのはずだ。

 だから、今度は俺が――

「絶対、助けるから」

 暗い曇天の果てを見据えながら、ヴァンは決意を言葉にする。

 エイムがこくんと小さく頷くのを、掌で感じていた。

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