7 決意
重く垂れこめた曇天にその青い点を見つけたとき、沸き上がったのは喜びではなかった。
まっすぐユーゴの肩に舞い降りた
幼い家主は、不在であるというのに。
(……俺は、いったいなにをしているんだ)
〈
(失態? なにが、どこからどこまで、俺は駄目だった?)
それとも、
短い息継ぎの合間にも、喉が引き攣るようだった。知音鳥が運んできた、教国へ潜入したエイムからの報告書を握り締め、懸命に歌声を絞り出す。
――もしも僕が失敗して帰ってこなくても、だれも困らないでしょ?
困る、と、即座に返してやれなかった。
――自己満足にあの子を利用するなよ。
違う、と、そう即座に反論してしまった。
(……矛盾だ。シャンタルへの贖罪じゃなく、エイム本人を大事と思うなら、俺はあいつを行かせてはいけなかった。だけど)
――ゆめゆめ、己が立場を忘れるな。
(濁血を大事と言ったなら……俺は、森路たりえない)
幼い頃から刷り込まれてきた祖母の呪いが、ユーゴの足に絡みつく。定められたこの場所から一歩たりとも動けずに、いつも通りの歌を歌い、いつも通りの儀式を行って、死地に赴いた少年からの、吉報をただ待つばかり。
(……俺は、いったいなにをしているんだ)
再度問う。問うてはいるが、己が心はすでに答えを持っていた。
なにもしていない。
そうそうと流れる瀬音に似た樹葉のゆらぎが、罪悪感を押し込めた歌声を攫っていく。精霊の瞬きは憐憫を宿し、幾千の泡沫となって空へと昇る。中天の陽を覆い隠す鈍色の空は、水底から臨む水面のようであった。
ここは、深い、深い、樹海の底。溺れてしまいそうな錯覚に陥る。いっそのこと、溺れて藻屑と化したいのかもしれない。そうすれば、この胸にわだかまる息苦しさも、自己嫌悪も、なかったことにできるのだから。
*
指環を翳し、向こう側を覗き見る。
環の内側。その狭小で
「よかったの? 言わなくて」
「シャンタルさんはエルア族なんだって」
「言ってどうする。ジスランが知ったところで……いいことなんか、なにもない」
伝えてしまえば、生真面目なジスランは衝撃を受けるだろう。
「べつに、あえて苦しませたいとは思わないから。なんなら、知らないほうがいい」
「そっか。……それもそうだね」
――すべてを
口論をした日、受け入れ難かったジスランの言葉が、いまならなんとなくわかるような気がした。
風が雲を押し流し、僅かに覗いていた夕空が消えていく。指環に縁取られた世界には、再び分厚い曇が垂れ込めた。
(俺にとっての世界は、こんなものだった)
母を喪ってから今日まで、この環の内側のような窮屈で息苦しい日々を、ひとり彷徨い歩いてきた。
(でも)
――なにがあったんだ? いやそれより、痛いところないか?
――……無事に帰ってきてくれて、安心した。
(そうじゃなかったのかもしれない)
翳していた指環を降ろし、握り込む。
枠を失くした空は、不穏で、不明で、果てなく広い。それでも、――孤独ではない。
「手紙、ユーゴにちゃんと届いたかなぁ」
となりでぼんやりと空を眺めていたエイムが、ふとそんな言葉を洩らした。
ヴァンの養父の助けを得て、密猟者を探す手筈を整えた――という経緯を手紙にしたため、知音鳥に託したのだ。動向のこまめな報告は、族長から直々に下された役目である。はじめて同胞の役に立てると意気込んでいたのに、いざ手紙が手元を離れた途端、不安が押し寄せてきたようだった。
「大丈夫さ。だっておまえの鳥は、ちゃんとジスランを呼んできてくれたじゃないか。ユーゴに届かないはずがない」
「うん……わかってるんだけど、なんだか落ち着かなくって」
寝癖のついた髪を撫でつけ、しょぼつく目元をこする。ジスランの促しに従い仮眠を取ろうとしたものの、うまく眠れなかったようだ。
「僕、ちゃんとみんなの役に立ててるかな?」
「当然。言いつけ通り、ちゃんと報告もしたじゃないか」
「もしも、もしも事がぜんぶうまくいって、同胞を助けることができたら……
みなまで言わず、零れ出た願望を恥じるように、エイムは
(俺には何度も手を差し伸べてくれたのに……自分からは、求められないのか)
そう思うと、無性に腹が立ち始めた。自分のことを「やさしくなんかない」と卑下したときと同じ、曖昧に笑いながら自分の心を誤魔化している。
不安を隠し、怖いとも、寂しいとも言い出せない。ひとり抱え込んで平気なふりをするのは、きっと彼の癖なのだ。どれもこれも――寄る辺であるべき者が、そばにいないから。
(なにやってんだ、ユーゴは)
胸裡で文句を言いながら、エイムの癖毛をくしゃりと撫でる。驚いたエイムが顔を上げたところで、わしゃわしゃとより強い力で撫でまわした。
「な、なに? どうしたの」
「あいつめ、今度会ったらただじゃ置かねえ」
「えっ、それユーゴのこと? なんで?」
「もう決めた。止めても無駄だ、絶対一発ぶん殴る」
「どういうことなの? わ、わ、待って、髪が絡まる」
「俺、密猟されたエルア族を助けるから」
はっきりそう言い切ると、戸惑っていたエイムがぴたりと動きを止めた。ユーゴの態度も、濁血の扱いも、ヴァンひとりでどうこうできることではない。けれどもいま対峙している密猟の件だけは、唯一、自分がエイムの支えになれることのはずだ。
だから、今度は俺が――
「絶対、助けるから」
暗い曇天の果てを見据えながら、ヴァンは決意を言葉にする。
エイムがこくんと小さく頷くのを、掌で感じていた。
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