2 互譲

「ば、馬鹿かよ! 急に開くな、もしもなにかの罠だったら――」

 マルセルの慌てた声と同時に、知音鳥が飛び込んでくる。青い翼の羽搏きに眇めた目が、見慣れたはずの髭面を捉えて瞠目した。

「ジ、ジスラン……?」

 息を切らし、汗だくで、髪はぼさぼさ。いつもきっちり着衣しているはずの、シャツや外套も乱れている。常日頃憮然としている物静かな男が、こんなに取り乱している姿など、ヴァンは一度も見たことがなかった。

 驚きのあまり言葉を失っていると、ジスランの背後からマルセルが恐る恐る顔をのぞかせた。ヴァンの姿を見るやいなや血相を変えて、立ち尽くしたままのジスランを押しのける。

「お、おまえ、どうしたんだよその怪我は!」

 イネスが手当を施してくれたものの、額には血の染みた包帯、頬は擦り切れ赤くなり、痛々しい姿ではあった。

「なにがあったんだ? いやそれより、痛いところないか? いや痛いに決まってるか。まったくなんて有り様だ」

 言いながら、マルセルはヴァンの外套に付いていた、土埃や葉屑を払い落としてくれる。黙って家を抜け出したことを、責められるとばかり思っていた。怒気など微塵もないマルセルが身なりを整えようとしてくることに、戸惑いのあまり茫然と立ち尽くしてしまう。

 されるがままになっていると、背後からくすりと笑う声がした。

 制止の言葉も忘れてされるがままになっていると、背後からくすりと笑う声がした。

「よかった。だいじにされてるんだね」

「だい――はあ?」

「だって、こんな汗だくになるくらい急いで来てくれたんだもの。きっとすごく心配してたんだよ」

 エイムの嬉しそうな笑みに、急に顔が火照りだした。マルセルの手を払いのける。そうしてからようやく、がらんどうの部屋にぽつんと佇む見知らぬ少年の存在に、マルセルが目を留めたのだった。

「子供? なんでこんな子供が、聖碧物を持っている。誰から拝領したんだ」

 飛び込んできた知音鳥は、いまはエイムの肩にちょこんととまり、ひと仕事終えたことを誇るように胸を張っている。首筋をやさしく撫でて労っていたエイムが、「拝領?」と首を傾げた。

「この子は僕のともだちだよ。ユーゴがくれた子で、ちいさい頃からずっと一緒にいるの」

「聖碧物じゃない? ユーゴってのはいったい――」

 怪訝そうに眉を顰めたマルセルが、エイムのまとう外套にはっとして、さらに厳めしい顔になる。教会から支給される、粛清官揃いの青藍せいらん色の外套。粛清官以外がまとうことは許されず、十歳かそこらの子供が着用するはずがないものだ。しかし裾は少年の背丈に合わせて短く切られており、彼個人の持ち物かのようである。

「おまえ……何者だ。なぜその外套をまとう。しかも、聖碧物でない知音鳥を連れてるってのはどういうことだ」

「マルセル、待って」

「ヴァンがいなくなったことになにか噛んでるのか?」

「待ってくれ。逆だ、俺を助けてくれたんだ」

 眉間に皺を寄せながら詰め寄ろうとするのを、間に割り入って止めた。語気に怯んだエイムを背でかばい、「怖がらせないでやってくれ」と訴える。

「恩人なんだ。こいつがいなかったら、……俺はとっくに死んでる」

 マルセルとジスランが、驚いたように目配せをし合う。なにもしない、と両手を上げて示したあと、今度はジスランがゆっくりと歩み寄ってきた。膝を落として目線を合わせると、左手に握りしてめいたものをエイムに見せる。

「これを送ってくれたのは、きみか?」

 血の付いた、ヴァンのメダイユである。

 こくりと細い首を揺らしてエイムが頷くと、ジスランが「名は」と問うた。

「エイムっていいます」

「ヴァンを助けてくれたそうだな。……ありがとう、エイム」

「えっと、あなたがジスランさん……で、合ってる?」

「ああ、そうだ。あっちはマルセルという。怖がらせてしまって、すまなかったな」

 子供を威圧してしまったことに反省しているのか、マルセルが申し訳なさそうに眉を垂れた。

「悪かったよ。こちとら夜通しヴァンを探してたもんだから、気が立っちまってて」

 「夜通し?」と、驚いたヴァンとエイムの言葉が被る。

「そりゃあ、おまえ、ひどい口論をした次の日にベッドはもぬけの殻、仕事も来なけりゃ日が暮れても帰って来ない。家出なんて今まで一度もしなかったのに、いったいどこに行っちまったのかって、町中探し回ってたんだ」

「なんで、そんな……俺はてっきり、呆れられるものかと」

「呆れるもんか。あれは……口を滑らせた俺のせいだ。びっくりしたよな。いちばんよくないかたちで、おまえにシャンタルのことを知らせちまった」

――毎年毎年盛大な追悼式しやがって。なにが殉教者だ。なにが英霊だ。ほんとうはあいつがシャンタルを殺しちまったのを、揉み消したいだけのくせに。

「時期をみて、ちゃんと話すつもりではいたんだ。なあ?」

 マルセルに促され、ジスランが立ち上がった。無言のままヴァンにメダイユを手渡す。ずっと握りしめていたのだろうか、銀のおもてはわずかに熱を帯びている。

 束の間、沈黙が流れる。なにかを逡巡するような間のあと、ジスランは「ああ」と首肯した。

「その怪我、なにがあったと聞きたいところだが……まずは、俺が、こうなったきっかけである問いに、答えるべきなのだろうな」

 どくりと、鼓動が跳ねた。

――どうして、おれを買ったの。

 ジスランと出会ったあの土砂降りの夜から、幾度となく投げかけ、その度にふいにされてきた問いのことだ。

 ジスランとのちょっと複雑で難しい関係は、この問いからすべてが始まる。ここで縺れたものがいつまでもほどけないから、ヴァンは心に燻る熾火いかりを消すことができないのだ。

 張り詰めていた糸が切れるように、ジスランは項垂れ、長い吐息をく。ややあってから、躊躇いがちにヴァンの肩に手を置いた。

「とにかく……帰ってきてくれて、安心した」

 熱い、掌であった。それは冷たい土砂降りの中、ヴァンの手を引いたときと同じ熱である。

 母の指環を奪われ、五〇金貨を課され、憎いとさえ思った手。けれどもただ憎いだけではなかったからこそ、母の死の真相を隠されていたことに、途方もなく腹が立ったのだ。この手が、母を殺した男や酒場の店主、テランスらのような、自分を苦しめるばかりの手ではなく、なにか別のものを持っているのだと思ったから――

「お……俺はな、ジスラン。怒ってるんだ」

「……そうだろうな」

「俺を騙していたくせに」

「すまなかった」

「母さんの指環を奪って、俺を縛り付けやがったくせに」

「……おまえをここまで追い詰めてしまったのは、悪かったと思っている」

「なのに、――なんで、俺のことをそんなふうに気にかけるんだ!」

 ジスランの太い眉が、予想外の言葉に跳ね上がった。

「訳が分からないんだよ、おまえ」

 いっそのこと、ぞんざいに扱ってくれればわかりやすかった。容易に憎み続けられたに違いない。実際はしかし、ジスランは息を切らし、なりふり構わず走って来た。ヴァンの無事に安堵の表情さえ見せる。

――だからね、僕……信じたい。ほんとうの家族じゃなくても、僕とユーゴの間には、なにか特別なつながりがあるんだって。

(そんなもの、俺とこいつの間にあるわけない)

――ジスランさんとヴァンも、僕たちと同じように血のつながりはないよね。だからこそきっと、きみたちの間にも、なにかそういうものがあるんじゃないかなって思うんだ。

(あったとしても、エイムの言うような温かみのあるものじゃない。……だけど)

 いつの間にか、無意識にメダイユを両手で握りしめていた。

 それは、エイムがユーゴを信じたいのだと言ったときの、祈りの姿を映したような姿であった。

(俺は……知りたい)

 母の真実を。――ジスラン・グラースという男を。

「今度こそ、逃げずに全部話してくれ。俺も……逃げずに、ちゃんと聞くから」

 視線を上げ、群青の眸を見据えて言う。ほんの少し驚いたように瞠目したあと、ヴァンの気持ちを受け止めるかのように、ジスランはゆっくりと首肯したのだった。

「そしたら、僕は外で待ってるね」

 扉の方へと歩き出しながら、エイムが控えめにそう言った。

「個人的で、繊細なお話しだろうから。しばらくお散歩でもしてくるよ」

「いや、いいよ」

 外套をくいと引き、小さな背を呼び止める。

「むしろ……ここにいて欲しい」

 エイムがいなかったら、自分はあの浅瀬で殺されていたか、捕らえられて拷問を受けていたことだろう。心に燻り続ける怒りを拭えぬまま、ジスランを恨むことばかりに傾倒し、こうして向き合おうとすることすら、できなかったに違いない。

 彼の優しさが、ヴァンをここへと導いた。

「頼むよ、エイム」

 ようやくもたらされる真実を前に、緊張で冷えてしまった手が、縋るだれかを求めてしまう。するとすぐ心得たとばかりに、エイムが手を握ってくれたのだった。

「おい、いいのか? ジスラン」

 マルセルが狼狽えたように言葉を濁す。

「この話は、グラース家の……」

「ヴァンがそうしたいと言うならば、いい。さて、……どこから話そうか」

 過去の記憶を手繰るように、ジスランは窓の外へと視線を流す。その群青の眸は景色ではない、どこか遠くを見つめていた。

「俺と弟――リュカは、シャンタルが歌手をしていた頃の、酒場〈あなぐら〉の客だった」

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