バベルの塔 ~僕らが築くはずだった理想郷~
速水静香
第一話:『乖離』
俺は、大学の講義棟を歩いていた。
午後の講義が終わり、次の予定までぽっかりと時間が空いてしまった。特に誰かと約束があるわけでもない。かといって、すぐに帰宅する気にもなれない。ただ人の流れに体を預けて、ぼんやりと歩を進めていた。
こういう、宙ぶらりんな時間が一番苦手だった。
どこかのグループに混ざってしまえば楽なのだろうが、その輪の中に自分の居場所を見つけられない。表面的な会話を続けるのは、俺の苦手な分野だ。誰かの話に当たり障りのない相槌を打ち、面白くもないところで笑ってみせる。そんな自分を、もう一人の自分が冷めた目で見ている。その感覚に、いつも少しだけうんざりしていた。
ある瞬間。
一気に周囲のざわめきが、遠くなった。
単純に、床の継ぎ目に少しだけ足を取られただけだったかもしれない。本当に、どうでもいいくらいの、日常のノイズに埋もれてしまうほど些細な一瞬の出来事。
その時、俺は足元を見ていた。見慣れた、傷だらけのリノリウム。
次に顔を上げた、その時だった。
世界が、塗り替えられていた。
「……は?」
思わず、間抜けな声が出た。
さっきまで視界にあった、学生たちの姿も、窓から差し込む西日も、掲示板のごちゃごちゃしたポスターも、何もかもが消え失せていた。そこは、大学の講義棟ではなかった。
代わりに、どこまでも続く黄色い壁紙。規則的で、目がチカチカするような悪趣味な模様だ。床も、無数の学生たちの靴跡がついていたリノリウムじゃない。水分をたっぷりと吸ってじっとりとした、濃い茶色のカーペットに変わっている。一歩踏み出すと、靴底が「じゅっ」と湿った音を立てた。不快な感触が足裏にじかに伝わってくる。まるで、濡れたスポンジの上を歩いているみたいだ。
なんだ、これ。
ただ、カビと古い埃がまじったような、淀んだ空気が肺を満たすだけだった。何よりおかしいのは、人の気配が完全に消えていることだ。あれだけいた学生たちが、一瞬でどこへ行った?
ただ、天井に等間隔で設置された蛍光灯が、ブーン、という単調なハム音を立て続けていた。静かすぎるせいで、その音がやけに大きく耳についた。まるで、この空間そのものが発している、不気味な呼吸音のようだ。
ゆっくりと、自分が来た方向を振り返る。そこにも、見慣れた大学の風景はなかった。今いる場所と全く同じ、黄色い壁紙の廊下が、ただ、まっすぐに伸びているだけ。
出口がない。窓もない。扉すら、一つも見当たらない。
完全に閉じられている。
「……夢、か」
そう思うのが一番しっくりくる。
きっと、退屈な講義中にうたた寝でもしてしまったんだ。そうだ、そうに違いない。俺は自分の頬を、思い切りつねった。
じわりと、鈍い痛みが皮膚の表面に広がる。でも、目の前の景色は変わらない。黄色い壁紙は相変わらず気味の悪い模様を描き続け、蛍光灯は耳障りな音を立てている。頬に残る、このはっきりとした痛みだけが、ここが紛れもない現実だと、冷酷に教えていた。
◇
全身からすっと温度が下がっていくのが分かった。指先が冷たくなる。背中にじっとりと嫌な汗がにじんだ。
落ち着け。まずは状況把握だ。
パニックになったら終わりだぞ。
必死に俺は、自分に言い聞かせた。
ポケットを探ると、スマートフォンの硬い感触があった。それだけで、少しだけまともな思考が戻ってくる。そうだ、これがある。これがあれば、時間も分かるし、地図で現在地も確認できる。誰かに連絡だって……。
「……だよな」
画面の左上に表示されたアンテナのアイコン―電波が届いていないことを示すそれによって、俺の淡い期待はあっけなく砕かれた。
何度か通信設定をオンオフしてみても、状況は同じ。アンテナのマークは一本も立たない。完全に沈黙している。地図アプリを開いても、自分の位置を示す青い点は、広大な灰色の空間の上で表示すらされない。
もはや、スマホは何の情報も示してはくれない。唯一の命綱が、何の役にも立たないただの文鎮になってしまった。
それでも、じっとしているわけにはいかない。俺は、壁に沿ってゆっくりと歩き始めた。壁紙のどこかに継ぎ目はないか。カーペットの下に、隠された扉はないか。どんな些細な変化も見逃さないように、神経を尖らせる。
壁に触れると、ひんやりとしていて、少し湿っていた。壁紙の裏側で、何かが蠢いているような、そんな想像をしてしまい、慌てて手を離す。
ふと、あるネット記事の内容が不意に頭をよぎった。
インターネットの片隅で、まことしやかに語られているネットロア。現実世界でごく稀に発生するという、空間のバグ。壁や床をすり抜けて迷い込んでしまうという、裏側の世界。
『バックルーム』
確か、そんな名前だったはずだ。その特徴が、今いるこの場所と気味が悪いほど一致している。無限に続く黄色い壁紙の部屋。湿ったカーペット。そして、耳障りな蛍光灯のノイズ。
まさか。そんな馬鹿な。あれはネット上の作り話だ。誰かが創作した、ただのホラーストーリー。
そう頭では必死に否定しているのに、体の芯がどんどん冷えていくのが止められない。もし、ここが本当にあの『バックルーム』なのだとしたら。
出口は、ない。
その絶望的な事実が、冷たい塊となって俺の胃の腑に落ちた。
俺は、もうここから出られないのかもしれない。
焦った俺は、歩き出した。居ても立っても居られない。
この黄色い壁紙の空間を、がむしゃらに進む。もしかしたら、何か解決の糸口が見つかるかもしれない。
そのゼロに近い可能性に縋りつくかのように、何も考えずに俺は進み始めた。
だが、歩いても歩いても、景色はまったく変わらなかった。
右も左も、前も後ろも、全部同じ。まるで巨大なコピー機で同じ風景を延々と貼り付け続けているみたいだ。自分が前に進んでいるのか、それとも同じ場所をぐるぐる回っているだけなのか、だんだん分からなくなってきた。
この空間は、人間の方向感覚を狂わせる。視覚情報が単調すぎると、脳が正常に機能しなくなるのだ。
確か、そんな話をネット上の記事で読んだことがある。
その時の俺はただの知識としてそれを頭に入れただけだったが、今、俺はその恐怖を身をもって体験していた。
どれくらい歩いただろう。
スマートフォンの時刻表示は、俺がこの場所に迷い込んだ時からほとんど進んでいなかった。なのに、足はもう棒のように重く、全身は疲労で満たされている。ここの時間感覚は、空間の法則から切り離されてしまっているのかもしれない。
一度座り込んだら、もう二度と立てない気がした。動いていないと、この空間の淀んだ空気に精神ごと取り込まれてしまう。
そんな焦りだけが、俺を前に進ませていた。
◇
疲労はとっくに限界を超えていた。俺は壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。湿ったカーペットの感触がズボン越しにじっとりと伝わってくる。カビと埃がまじったような、むっとする匂いが鼻をついた。もう一歩も動けそうにない。
スマートフォンのバッテリーも残りわずかだ。ライトを消し、画面の明かりを最小限に落とす。暗闇に目が慣れると、蛍光灯の明かりだけでも周囲の様子は十分に見て取れた。それは、何の慰めにもならなかったが。
膝を抱えて体を丸めると、ほんの少しだけ、気持ちが落ち着くような気がした。狭い場所に身を置くことで得られる、原始的な安心感。だが、それも長くは続かない。すぐに、この空間が持つ圧倒的な孤独感が、心を蝕んでいく。
「誰か……いませんか」
自分でも驚くほどか細い声が、誰にも届かずに空間へ吸い込まれて消えた。
もし、俺以外に誰かがいたら。それは救いになるのだろうか? それとも、さらなる絶望を連れてくるのだろうか。
『バックルーム』の逸話では、そこには『エンティティ』と呼ばれる人ならざる危険な存在が徘徊しているという。
俺はぎゅっと目を閉じた。余計なことを考えるな。今はただ、体力を回復させることだけを考えるんだ。
瞼の裏に、ぼんやりと大学の光景が浮かんでくる。別に、特定の誰かの顔というわけじゃない。同じ講義を取っている、名も知らないやつらの顔。講義が始まる前に「昨日の課題やった?」とか、終わった後に「ノート見せて」とか、その程度の会話を交わすだけの関係。深い話は一切しないし、相手もそれを望んでいない。
講義室を出れば、俺たちはまた赤の他人だ。
俺はスマートフォンのロックを外し、鳥のマークがついたアプリを開いた。
もちろん、新しい投稿が読み込まれることはない。オフラインで保存されたキャッシュのデータが表示されるだけだ。そこには、僅か数時間前に見たのと全く同じ、彼らの『充実した』日常が並んでいた。
サークルの仲間との飲み会。恋人と行ったらしいテーマパーク。何気ない日常を切り取った一枚でさえ、そこには俺の知らないコミュニティの匂いがした。どの写真も、幸福な瞬間を切り取った完璧な一枚に見えた。
俺は、その一つ一つをスクロールしながら、自分が彼らの投稿にどう反応していたかを思い出す。当たり障りのないコメントは面倒だと、とりあえずハートのマークを押しておく。そうすることで、俺も君たちの世界に関心があるんですよ、という無言のアピールをする。関係性を維持するための、最低限の儀式。そこに、本当の気持ちなんてありはしない。
彼らと俺の間には、見えないけれど確実な線が引かれていた。彼らが俺にかける言葉は、いつだって講義に関することだけ。それ以外の話題、例えば「今度、飯でも行かない?」なんて言葉が向けられたことは一度もない。
もちろん、俺からそんなことを言ったこともない。何よりも人に合わせて動くことが面倒くさい。
だから、俺はいつも一人だった。
大勢の中にいても、常に疎外感があった。まるで自分だけが、この世界の本当の住人ではないような、そんな感覚。
皮肉な話だ。
現実の世界で感じていた孤独と、今この異空間で感じている孤独。もしかしたら、本質は何も変わらないのかもしれない。違うのは、隣に誰かがいるか、いないか。ただ、それだけのこと。
――いや、本当にそうだろうか。
もし今、この場所にあの『知り合い』たちが一緒にいたとしたら。俺たちは協力して出口を探すことができただろうか。互いを励まし合い、この絶望的な状況を乗り越えることができただろうか。
想像してみる。パニックに陥り泣き叫ぶ者。リーダーシップを発揮しようとして空回りする者。そして、そんな彼らを俺はきっと、冷めた目で見ているのだろう。心のどこかで、彼らの不幸を嘲笑いながら。
結局、俺は誰のことも信じていないのだ。そして、誰からも信じられていない。
だから、俺はここにいる。この、誰にも見つけてもらえない場所に、一人で。
これは、罰なのだろうか。俺が本当の意味で誰かと向き合うことを避けてきた、その罰なのかもしれない。
そんなことを考えていると、不意に、遠くで何かが動いた気がした。
気のせいだと思いたかった。疲労と空腹で、幻覚でも見ているのだろうと。だが、それは間違いなく、壁の染みだった。これまで無数に見てきた、意味のない模様の一つ。それが、まるで生き物のように、ゆっくりと形を変えていた。
俺は息を止めた。全身の血が逆流するような感覚。見間違いであってくれと、心の中で必死に祈る。
しかし、その染みはさらに大きく広がり、壁紙からじわりと滲み出すようにして、立体的な形を取り始めた。それは、人の形をしていた。
だが、顔に当たる部分はのっぺりとしていて、目も鼻も口もない。黒いマネキンのような、しかしそれよりもずっとおぞましい何かが、壁から生まれ出ようとしていた。
逃げろ。
脳が、警鐘を鳴らす。
だが、体は重く、動かない。恐怖で足が動かないのだ。
そいつは、音もなく壁から完全に分離し、こちらに向かって一歩、踏み出した。
その動きには、一切の感情が感じられない。ただ、プログラムされた通りに動いているかのような、無機質な動作。それが、かえって俺の恐怖を煽った。
俺は、もつれる足で後ずさる。背中が壁にぶつかった。行き止まりだ。
のっぺらぼうの怪物は、ゆっくりと、しかし着実に距離を詰めてくる。そいつが何をしたいのかは分からない。だが、ろくなことにならないだろうということだけは、本能で理解できた。
もう駄目だ。もう俺は終わりなんだ。
そう、死ぬ時くらいは楽に生きたいものだ、と。
俺はどこか他人事のようにすべてを諦めた。
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