──破──

 軍部の執拗な追跡は、太平洋戦争終結と共に終わりを迎えたように見えたが、陸軍防疫研究室の情報は戦後の日本を統治したGHQに引き継がれ、秘密裏に継続された。

 二人は敗戦の混乱と貧困の中で生きる術を模索しながら、運命共同体として逃亡を続けた。繰り返される忍び逢いの中で、朱里は白銀の髪を黒く染め、佐伯は髭を蓄えた。しかしそれでも、どちらか一方が動けば、その影響がもう一方に必ず及ぶような状況は変わらなかった。いつしかこの関係を支えることが生きる真意となり、二人は命をかけて互いを守り続けた。

 街そのものも変化した。高度経済成長による環境汚染。高層ビル群が月の光を遮り、街灯の眩しさで自然の闇と灯りが消えた世界。しかし、二人にとって武蔵野の記憶は消えなかった。あの豊かな大自然、草原の広がりや月の美しさは、時代の変化に左右されない風景として、心の拠りどころとなっていった。


 ♢


 二○XX年、待宵まつよい。東京都新宿区内のとある病室──

 ここ十年にわたって世界中に猛威を振るった流行り病は、人々の暮らしから生気と希望を奪い去った。新型の呼吸器系ウイルスは変異を繰り返し、各国の対策は常に後手に回り続けていた。感染拡大は幾度となく波のように再燃し止まることがなかった。

「人間はそれでも、魔法薬ワクチンなるものを信じて多くの命を救わんと足掻いてきましたが、どうやらわたくし達には効かぬようでございます。まさか、あなた様までもがかかってしまうとは」

 この日、佐伯が半年に及ぶ慢性化した症状の末に倒れたことは、互いにとって運命を悟らざるを得ない瞬間となった。

 佐伯はただ横たわりながら、半ば閉じた目で天井を見上げている。

 朱里は、彼の痩せ衰えた瞳の奥に最期を覚悟した冷静な光を見つめながら、自らもまた、同じ未来へと向かっていることを予感していた。

「永遠の命と言ったは情けない。砂上の楼閣の如くいとも簡単に……」

 朱里は佐伯の横顔に向かい話した。

「たぶん、あなた様にとっては明日の十五夜が最後の夜になりましょう。変身する際の衝撃にその身では耐えられませぬ。……この、わたくしとても」

 朱里もまた、自身の体に変化を感じていた。もはやあの膨大なる力を支えきれぬことを、彼女は熟知している。

「後悔はありません。永遠の命などただの幻想。人が生きることの意味を、あなた様とともに過ごしたこの百余年で学びました。思えばわたくしの永い人生の中でも、この百年こそが唯一、幸せと呼べる時間でございました」

 佐伯の疲弊し、乾いた口角が微かに動いた。それが微笑みの痕跡であったのかはわからなかったけれど、その横顔に朱里の記憶は遠く武蔵野の月夜へとさかのぼった。暗い空に輝く月が、二人の邂逅を照らしていた。

「わたくしは今でも、月夜を見上げる度に出逢った頃を思い出しまする」

 朱里は、諭すように話し始める。

「黄昏色に染まる高尾山の梺、細く長い坂道。つづら折りの曲がり角に浴衣姿のわたくしはひとり、遠くを見つめ佇んでおりました。藍染めの江戸小紋に半幅博多帯を締め、黒いレース地の日傘をしゃにさして。眼下を流るる城山川の清流がキラキラと輝いておりましたっけ」

 佐伯の眉が僅かに動いた。

「あの時あなた様は、ハイキング客を装っていたのでございましたね。そんなことも露知らず、岩間の苔に負い取られ、足を挫いたと言うあなた様をわたくしの別宅までお連れして。肩を貸したわたくしに体重を乗せてくるもので、それは随分と骨をおりました。家につく頃にはどっぷりと日が落ちて、西の空には宵の明星が瞬いて。……するとあなた様は、顔を出したばかりの上弦の月を見上げながら一言、こう言ったのでございます。『月が綺麗だ』と。……ああ、その時のお美しい横顔に、わたくしもまた見惚れておりました」

 佐伯の閉じた瞼には涙が滲んでいる。

「追っ手から逃れ、戦後の激動の時代を生き抜くことが出来たのは、あなた様が居てくれたから、あなた様のあの十五夜での覚悟があったからこそ。感謝のしようもございませぬ」


 朱里の言葉を聞き終えた佐伯は小さく笑った。朽ちかけた身体に残る最後の力を奮い立たすかのように、ゆっくり起き上がる。骨が軋む音さえ聞こえてきそうな動きでベッドの縁に座ると、片手を朱里の肩に置き、瞳をじっと見据えた。窓辺から射す細い月明かりが、やつれた彼の顔を照らす。

「ありがとう。……しかし、まだ終わらんよ。月が二人を見守る限り、足掻いてみせよう」

 そう言い終えると膝にありったけの力を込め、息を切らしながら立ち上がった。震える背には確たる覚悟が宿っている。

「朱里、私を高尾山まで連れて行ってはくれぬか……そう、君の別宅に」

「あの廃墟に、いったい何があると?」

「希望だ」

「……希望?」

「ああ。君には話せずにいたが、私はあの家をある研究の工房として使っていたのだよ。こんな日が来ることを予測してね」

「研究、いったいどんな……」

「それは、道すがら話すとしよう」

 佐伯は不敵な笑みを浮かべた。

「承知いたしました。しかし今のお体では、高尾山につく頃には命が尽きてしまわれます」

 朱里はうしろ髪を手繰たぐり寄せりと、細く白い首筋を佐伯に晒した。


「精気をお分けいたします。どうか、わたくしを噛んでくださいまし」

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