第一章:鎧、目覚める夜

第一話:春の夜、砕かれる日常

 西暦2030年、春。その夜は、観測史上稀に見る激しさで線状降水帯が兵庫県三木市の上空に停滞していた。工房の古い木枠の窓を、春とは到底思えぬ冷たく硬質な雨粒が、まるでつぶてのように叩きつけている。スマートフォンの画面は、土砂災害警戒情報を示す赤色の警告で明滅を繰り返し、不快なアラート音を絶え間なく鳴らし続けていた。


 しかし、その外の喧騒とは裏腹に、工房の中は水を打ったような静謐せいひつに満たされていた。油と金属、そして微かな線香の匂いが混じり合う空間。

 その片隅、伊勢神宮のやしろを思わせる清浄な佇まいのひのき造りの衣桁いこう――『清浄の懸架せいじょうのけんか』に掛けられていた藍色のボディスーツ、【天衣あまごろも】のメンテナンスが、つい今しがた終わったところだった。

 目に見えぬプラズマミストが晴れ上がり、微細な幾何学模様が刻まれたスーツの表面が、工房の裸電球の光を受けて、内側から滲むように淡い燐光りんこうを放っている。それはもはや単なる衣服ではなく、神殿の奥深くにひっそりと納められた祭具のような、厳かで侵しがたい気配を漂わせていた。

 藤林 匠ふじばやし たくみは、その静かな輝きから目を離すと、工房の中央に鎮座する自らの最高傑作へと向き直った。


 黒鉄くろがねの鎧、【v0.9(version0.9)】。その無骨ながらもどこかみやびやかさを感じさせる立ち姿を、匠は静かに見つめていた。傍らの大型モニターでは、けたたましい緊急速報が「避難」という二文字を繰り返し表示している。

 その喧騒をまるで遠い世界の出来事のように背中で受け止めながら、彼は今は亡き祖父・宗一郎そういちろうの言葉を、胸の内で静かに反芻はんすうしていた。


『鎧はな、人を傷つけるためのものではない。その人の日常、その人が歩むべき“道”を護るためのものだ』


 そうだ、と匠は心の中で頷く。この鎧は、誰かを打ち倒すための力ではない。ましてや、国家の威信を示すための道具でもない。ただひたすらに、名もなき人々のささやかな日常を、そして彼らがそれぞれの人生で歩むべき道を、あらゆる脅威から護るために。そのためにのみ、この鋼の器は存在するのだ。彼の脳裏には、祖父が工房でつちを振るいながら、あるいは縁側で茶をすすりながら、繰り返し語って聞かせたその思想が、ありありと蘇っていた。それは単なる教えではなく、この工房に、そして匠自身の血脈に深く刻まれた、揺るがぬ「道」そのものであった。


 工房の全景が、鈍い光の中に浮かび上がる。彼が寝食を忘れ、青春のほとんどを捧げて作り上げた空間。壁には祖父から受け継いだ年季の入った万力や金槌、ヤスリが整然と(しかし使い込まれた様子で)並び、中央には宗一郎の力強い筆による「鎧は道を護るもの」という書が掲げられている。

 その隣には、彼が遺した本物の黒漆塗りの胴丸具足が、静かな存在感を放っている。床にはコンクリートの打ちっ放しに染み込んだ油のシミが深く刻まれ、天井からは鉄骨の梁が剥き出しになり、無数のケーブルダクトと旧式の蛍光灯が吊り下がっている。

 アナログとデジタルが混在するその空間の中央、整備用のスタンドアームに固定され、黒鉄の装甲を鈍く光らせているのが【v0.9】だ。


『三木市内の消防・警察回線、現在も応答なし。通信インフラ、一部地域で断絶を確認』


 円筒形のホログラム投影装置から現れたAIアシスタント、MIYABIが、その雅やかなアバターの表情をわずかに曇らせ、淡々とした事実を報告する。この記録的な豪雨は、地域のインフラを完全に麻痺させていた。この嵐の中、公的な救助――共同体の力は、すぐには機能しない。いや、機能できないのだ。この工房という閉じた空間には、突出した技術と、行動を決断できる個人、そして、その行動を後押しする者がいない孤独な環境だけが、存在している。全てが、否応なく「個の力」が試される状況へと整えられていた。


 その時だった。夜空を切り裂く雷鳴とは明らかに異質な、地の底から響くような鈍い轟音ごうおんが工房全体を揺るがした。壁に掛けられた工具がカタカタと音を立て、床に微細な振動が伝わる。即座にMIYABIの警告が響いた。


『――緊急警報。工房より北東800メートル地点にて、小規模な土砂崩落を検知。居住家屋への直撃を確認。家屋半壊。……バイタルサイン、4名を捕捉。うち1名、低下傾向』


 数値と事実。それだけが、まるで弾丸のように、匠の網膜と鼓膜に叩きつけられた。彼が守るべきだと考えていた「日常」が、今まさに、すぐ近くで、物理的な音を立てて砕け散った瞬間だった。


 一瞬の逡巡しゅんじゅんが、匠の思考を停止させた。「俺が?」。まだ誰にも見せていないこの鎧を? 本当に実戦で動くのか? いや、それ以前に、バッテリーは? プロトタイプである【v0.9】の稼働時間は、計算上、最大でも30分に満たない。果たしてそれで、4人もの命を救えるのか? 様々な疑問と不安が、彼の心を暗雲のように覆う。


 しかし、MIYABIがモニターに投影する4つの生命反応を示すアイコン――そのうちの一つが、弱々しく明滅を繰り返している現実は、彼に迷う時間を与えなかった。


『バイタルサイン低下中の1名、危険水域です。このままでは…』


「……俺が行くしかない」


 それは、物語の英雄が変身を決意するような、劇的な叫びではなかった。むしろ、他に選択肢がない状況で、腹をくくった職人の、静かな「覚悟」の声だった。彼はすぐさま振り返ると、先ほど清め終えたばかりの【天衣】へと手を伸ばした。ひんやりとした感触のスーツが、第二の皮膚のように彼の身体に吸い付いていく。そして、工房の中央、黒鉄の鎧の前へと進み出た。


「MIYABI、コード――【着装ちゃくそう】!」


 彼の声に応え、【v0.9】の【面頬めんぽお】の目に嵌め込まれた黒曜石のような【真経津硝子まふつしょうし】が起動し、内側から淡い緑色の光を放つ。匠がその硝子を覗き込むと、彼の網膜パターンがスキャンされ、同時に彼の声紋が照合される。そして、【天衣】が捉えた心拍、血流、精神性発汗といったバイタルデータが解析され、彼の精神状態が確認される――『魂の認証』。


『――匠様、生体認証・声紋認証クリア。バイタル安定を確認。着装シークエンス、開始します』


 MIYABIの静謐な声と共に、天井を走る整備用アーム群が静かな高周波音を立てて降下してくる。まず【胴】ユニットと腰回りの【草摺くさずり】が背後から装着され、「カシュン」という乾いたロック音と共に固定される。次いで左右のアームが【籠手こて】と肩の【そで】を寸分の狂いもなく装着。「カチリ、カチリ」と、精密機械が噛み合う音が響く。最後に、中央のアームが【兜】を装着し、【天衣】の首元にある接続リングと結合した瞬間――。


「カチリ」


真経津硝子まふつしょうし】が完全透過し、緑色のワイヤーフレームでバッテリー残量や外部環境の情報が視界に投影される。同時に、全身の【天衣】に淡い燐光が「スゥッ」と走り抜け、黒鉄の鎧が完全に起動したことを示した。


 工房の引き戸が開け放たれる。外には、依然として激しい雨が降りしきり、闇が広がっている。黒鉄の鎧武者は、その嵐の中へと、静かに、しかし確かな一歩を踏み出した。彼が守り続けた日常は砕かれた。だが、それを自らの手で拾い集め、再び繋ぎ合わせるための戦いが、今、始まったのだ。


* * 次話の予告 * *


 工房の静寂に響く、異質な轟音。

 倒壊した家屋。泥と瓦礫に阻まれる道。そして、バッテリー残量の無慈悲なカウントダウン。

 匠と【v0.9】に課されたのは、「力」ではなく「思想」の試練だった。

 三種の神器――【八咫】【草薙】【勾玉】。その真価が、今、嵐の中で問われる。


 第二話:三つの神器、闇夜を照らす

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