第6話 穀雨、匂いの宛先

 雨。しとしと。窓をつたう筋が、ところどころ字になる日。


 図書館の読書席。御影さんが、ガラスの外を指さす。


「穀雨は“匂い”に効く。忘れたくない匂いを一度だけ呼び戻せる。ただし、無理は禁物」


「無理すると?」


「別の記憶が押し出される。だから、一番大きい匂いは選ばない」


 私は深呼吸して、雨筋の“時”“戻”“昨”と違う、小さな字の並びを探した。宵は吸い取り紙を持って、にじみを抑える役。


「——これにする」


 私は一行、書いた。


 『祖母の台所の、だしの湯気』


 次の瞬間、ほんの少しだけ、読書席が温かくなった。昆布の端を指でしごいたときみたいな香り。醤油を火に当てる、あの甘いきいろ。


 宵は目を細めた。「あ、これは……わかる。言葉にしにくいけど、わかる」


「これが“匂い座標”。紙に書くと、少しだけ戻るの」


 お昼すぎ。商店街のコロッケ屋さんが困った顔で言った。「今日だけ、味、定まらんのよ」。私は小さく手を合わせて謝った。等価交換。ひとつ戻すと、どこかが少しすべる。夜には戻るから、と説明して、揚げたてを二つ買った。


 帰り道。港のほうから、潮の匂いに混じって、遠い油紙の匂いがした。宵が傘の骨を見上げる。


「また、知らない印が付いた」


外海そとうづだ。たぶん、向こうからも“匂いの手紙”が来てる」


 御影さんは、瓶の棚から古いラベルを取り出した。丸の中に、逆さの灯台。小さく、にじんだ赤。


「やっぱりね。穀雨は、向こうの紙とも、仲がいい」


「じゃあ、返事を書く?」


「書こう。短く、わかりやすく」


 私は新しい紙に、一行、書いた。


 『こちらの匂いは、台所。そちらは?』


 宵が、にっこりした。「いいね。——“そちらは?”」


 窓の外の雨は、少しだけ細くなっていた。灯台は、霧の向こうで、いつも通りの明るさで立っている。


 次は、立夏。海が、もうひとつ現れる日。


(つづく)

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