第3話 @lienight

第3話 @lienight


 午前九時、会議室A。

 壁のモニターには、可視化ダッシュボードの集計が並んでいた。棒グラフの一本が、ほかより確かに高い。


「——“部分伏せ率”が椎名だけ高い」

 親会社PMの早瀬悠斗が、指先でバーを示す。「平均32%。椎名は47%」


 上司の神谷祐真が腕を組んだ。「理由は?」

 私は紙の端を揃え、落ち着いて答える。


「第三者特定の恐れと、支援導線を優先しました。短い断言より長い説明が必要な投稿が続いたので」


「“丁寧すぎる”は、恣意に見えることがある」

 神谷の声は平板だが、指が書類の角を二度はじいた。癖。合図。両方に見える癖。


 セキュリティの九条凛が口を挟む。「昨夜も火曜のログインはあった。閲覧だけ、改ざんなし。遮断は継続。公開判断は現場で」


「——続けましょう」

 私は短く言って、会議を畳んだ。数字は正直だ。ただし、切り方次第でいくらでも賢く見える。


     ◇


 昼。

 未処理キューの上に、見慣れた呼吸が浮かぶ。


〈正しさは、最短じゃなくていい。彼女の未来を守るために、少しだけ嘘をつきたい〉

匿名/タグ:婚約・試す・救う


 句読点の位置。語尾の伸び。

 ——@lienight。

 私はすぐに断定しない。断定しないのが、仕事だから。


 理由コードを選ぶ。「関係当事者の可能性」「炎上の恐れ」

 保留。

 保留という名の、長い会話。


 すぐ下に別の新着がかさなる。


〈“上司に口説かれている部下”の投稿を見た。彼は悪くない。私の勘違いだった〉

匿名/タグ:取消・職場・自責


 喉の奥が固くなる。

 “取消”は、しばしば圧力の匂いをまとう。

 私は差し戻しを選び、コメント欄に打つ。

 ——第三者評価ではなく、あなた自身の境界について書き直してください。

 ——支援先の導線を残します。


 送ると同時に、チャットに通知が落ちる。

〈“部分伏せ理由”の詳細をもっと開示できないか〉——広報(早瀬)

〈個人特定と逆照合の恐れがある。構造だけ出す〉——椎名

〈“見えない配慮”は、疑いを生む〉——広報(早瀬)


 私はウィンドウを閉じ、呼吸を整えた。

 見せること自体が目的化すると、現場の背中が丸裸になる。手当てではなく晒しになる。


     ◇


 午後、社内掲示板にトピックが立つ。

〈“未遂”は、どこから未遂ですか?〉

 読み慣れた言い回し。神谷の研修資料にある語彙が、匿名の影をまとっている。

 引力に抗うように、私は画面を閉じた。


 代わりに、母・椎名玲子へ短いメッセージを送る。

〈火曜日、ログが来た。閲覧だけ。境界の話を、またしよう〉

 既読はすぐつき、返事は来ない。返事のないやりとりは、長い会話の一部だ。


     ◇


 夕方、夜カフェ「夜更け」。

 親友の麻倉透子が、泡の立つラテを置き、スマホをくるりと回す。


「“伏せ率47%”、絵になるよ。スクショ、使っていい?」

「ダッシュボードの外部拡散はやめて。構造の説明なら、こっちで書く」

「モデの顔を見せないと、世間は恣意を疑うよ?」


「顔で信用を買うのは、短い気持ちよさだよ」


 透子は肩をすくめ、すぐ笑顔に戻る。

「じゃ、独占やらせて。**“モデレーターの正義”**って長文、投げ銭で回す。広告は外す」


「私の個人は書かない。方針だけなら」


「了解。さやはほんと、長いほうが好きだね」

 彼女の笑顔の下で、計算が薄く光る。私はその計算を嫌いになれない自分が、いちばん嫌いだ。


     ◇


 夜。

 オフィスに戻ると、神谷が窓際に立っていた。街の光の方を見ている。


「“未遂”の話を、したい」

 振り向かないまま、彼は言う。「あの夜。君がインターンだった頃。終電を逃して、ソファで——。押し問答にはならなかった。でも、力の差はあった。未遂、という言葉に救われるのは、俺のほうだ」


 私は椅子の背に手を回し、まっすぐ座る。

「私は“構造”だけ扱います。人名ではなく、手順の話として」


「手順で救えるか?」


「救える確率を上げる。支援先と記録と公開範囲を整える。——誰もひとりにしないために」


 神谷は短く笑い、書類の角を二度はじいた。「君は残酷に優しいな」

 褒め言葉か、皮肉か、判断を保留しておく。


     ◇


 23時過ぎ、凛からチャットが飛ぶ。

〈“火曜の閲覧”、今日もあった。検索語は“境界”“修復”“反応”。臨床寄り〉

〈遮断は?〉

〈完了。

〈ところで——文体解析、見たい?〉**


 次の瞬間、管理画面に可視化とは別のウィンドウが開く。

 匿名投稿群の文体ベクトルが点で並び、複数の点が収束していた。赤の点群にタグが浮かぶ——@lienight。

 凛は言う。「決定打にはならない。だが、確度は高い」


 呼吸の位置を変え、私は画面を閉じた。

 断定しない。その姿勢が、今夜はやけに重い。


 未処理の上に、また彼の呼吸。


〈正直は最短じゃない。彼女のために遅くなる正直がある〉

匿名/タグ:婚約・試す・救う


 私は保留を選ぶ。長いほう。


     ◇


 数分後、外部SNSが騒がしくなる。

 透子のまとめではない、別のアカウントがダッシュボードのスクリーンショットを流したのだ。

〈モデレーターA(匿名)の“伏せ率47%”は高すぎ?〉

 棒グラフの色は変えてあるが、時刻と件数で、私だと推測できてしまう作り。コメントが連なり、#検閲がトレンドに乗る。


 チャットに通知が飛ぶ。

〈広報(早瀬):「社の姿勢」をすぐ出す。**

〈“透明性の徹底”と“恣意性の否定”〉**

〈法務:拡散元の特定は不要。こちらは方針の明確化で応じる〉**


 神谷から個別で一行。

〈立ってられるか〉

 私は返す。

〈立ちます。構造で答えます〉


     ◇


 深夜。

 私はモデレーション方針の公開案を書き始めた。

 ——人名ではなく“構造”で扱う。

 ——部分伏せの基準と理由コードの公開。

——支援導線を最優先。

 ——関係当事者の可能性がある場合、保留で長い会話を選ぶ。


 送信ボタンの上で、指が止まる。

 送信ボタンは、キスより重い。

 重さを飲み込んで、社内回覧に投げた。


 その瞬間、未処理に新しい一件が浮かぶ。


〈“モデレーターの恣意”に傷ついた——と書けば伸びる?〉

匿名/タグ:炎上・再生数・道具


 焦げた笑いが喉に上がった。

 透子ではない。彼女の文体はもっと洒落ている。

 ——誰かが、炎上の経済を観察している。私を材料に。


 差し戻し。「“伸ばす”ことを目的にしている記述は受けられません。動機の再定義を」


     ◇


 帰宅。

 部屋は暗く、キッチンにだけ灯りがあった。

 悠斗が机に謝罪テンプレを広げている。「“運営としての謝罪”案、三種。透明性を強めに出すべき」


「“個人の判断”は裁量です。理由と手順で説明します」

「“個人”が嫌われてるんだよ、今」

「“個人”がいない運営は、機械だよ」


 彼はふっと笑った。「機械のほうが、公平だって言う人、増えてる」

「公平は“同じに扱う”で、正義は“違いを前提に扱う”だよ」


 会話はすれ違い、静かに床へ落ちた。

 私は背を向けて、寝室に入る。

 彼のスマホが、テーブルの上でひとつ震えた。

 画面に一瞬、@lienightがのぞいた気がした。振り返らない。断定しない。


     ◇


 夜明け前。

 社内チャットに、法務からの一行が置かれていた。


〈明日、モデレーション方針の公開を承認予定。

〈ただし、個人名特定につながる数値は外部では非公開**〉**


 続けて、広報(早瀬)の宣言。

〈“恣意性はない”を前面に。

〈“個人は顔を出さない”方針は維持。〉


 その下に、凛の短いメッセージが並ぶ。

〈文体クラスタ、追加解析。

〈@lienightの点群と、社内からの一部匿名が近接。

〈決定打ではない。が、君の直感は間違ってない〉**


 私はディスプレイを閉じ、額を指で押さえた。

 直感と証拠の間に、細い縄が一本渡る。

 渡ってはいけない。長いほうを選ぶなら、明朝まで待てる。


 机の引き出しからメモ帳を出し、三行書く。


・“部分伏せ”の定義を文章化

**・“保留”は敗走ではなく、会話の延長

・“恣意”という言葉の経済に飲まれない


 窓の外で、始発が線を引いた。


     ◇


 朝。

 出社すると、受付に匿名の封筒が届いていた。宛名は「椎名様」。

 中にはA4のコピーが一枚——ダッシュボードのスクリーンショット。

 丸が付いている。私のバー。

 余白に、丸い字で、短く。


「あなたの“伏せ”に救われた」


 差出人不明。

 私は封筒を畳み、静かに胸ポケットに収めた。

 救われた——という匿名。

 実名では届かない、短いひと言。


 席に着くと、社内チャットが騒がしい。

〈“モデレーターAは誰だ”特定班が動いてる〉

〈広報:顔は出さない。方針で押す〉

〈法務:会見は“構造”のみ。〉**


 私はヘッドセットをつけ、未処理を開いた。

 上段に、新しい一件が乗る。


〈彼女の正しさを、どうやって試せばいい?(最終)〉

匿名/タグ:婚約・試す・選択


 本文は短くなっていた。

 ——試すのをやめる。これが正直の最短?

 句読点が、初めて迷っていない。

 私は画面に手を伸ばし、部分伏せではなく、注釈を添えた。


 ——“試す”は関係のコスト。払える月と、払えない月がある。

 ——今日は、支払わない。


 承認。

 送信ボタンは重い。けれど、今朝の手は揺れない。


 すぐに別の新着が重なる。


〈“モデの恣意”を批判する記事で、広告収益が上がった。私は善い人?〉

匿名/タグ:告白・経済・免罪


 私は承認し、支援先のリンクを添える。「告白と経済の相談窓口」。

 透子だとは言わない。断定しない。

 ただ、構造だけを置く。


     ◇


 エレベーターの扉が開く音。

 広報の悠斗がまっすぐこちらへ向かってくる。

 彼の手には、会見用の紙束。「匿名の価値について、今日の夕方、社として話す」


「個人は、顔を出さない」

「うん。君は出ない。——@lienightは、出るかもしれない」


 彼の目が、わずかに笑った。

 私は笑わない。

 長いほうを選ぶ顔で、頷くだけだ。


(第3話 了)

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