第四章 冬——雪明かりの足跡
冬は、音が遠い。雪が音を吸うからやろか。朝来の谷は白く、川は鈍い光を抱いて息を潜めている。屋根の端では雪庇(せっぴ)が厚く伸び、杉の枝は粉をはらんでしなっている。囲炉裏の火のはぜる音だけが近い。購買組合の軒には新聞の見出しが二つ三つ、紙の角が凍てて反る。寺の縁側では、正午の“寄り聴き”で流れる年の瀬の放送に、人が自然と集まる。砂の音の向こうから流れてくるのは、米価よりも「寒波」「無理のないように」という言葉が多くなった。
除夜の鐘の二日前、夜の川の上に、ひとつの光が滑った。ふわり、またふわり。夏に見た“火の玉”によく似ているけれど、冬の光は硬く、息に当たってきしむ。わたし——明里は、縁側の隙間からそれを見て、胸の奥に小さな氷のかけらをのどした。遠くで犬が一度吠え、すぐに黙った。
翌朝、清蓮寺へ行くと、境内の雪が踏み固められて白く光っていた。住職の慧真さんが鐘楼(しょうろう)を仰いでいる。坊守の志乃さんは、手袋を外して合掌したまま、凍りついた息をゆっくり吐いた。
「撞木(しゅもく)が、ない」
鐘を打つ大きな木槌。年の最後の夜に、村の一つの音を生むもの。それが、鐘楼から消えていた。
雪の上には、足跡があった。鐘楼から庫裏(くり)へと続き、庫裏から山門へ。けれど、来た足跡がない。去る足跡だけがあるように見える。南の巡査が眉を寄せ、杖の先で雪の縁を崩した。
「入った形跡(けはい)が薄い。……おかしいな」
「わらじにかんじき、前後(まえうしろ)を逆に履けば、遠目には去る足跡に見える」
そう言ったのは惣介兄ちゃんだ。山道の人。兄ちゃんは膝をつき、足の蹴り込みの跡を指で示した。「爪先(つまさき)の雪が向こうへ跳ねとる。来たんやなく、行きはじめや」
鐘楼の柱には、うっすらと煤(すす)がこすれ、梁(はり)の節には白い繊維が一本、風で揺れていた。藁縄(わらなわ)の中身に似ている。稔兄ちゃんがそれを指に巻きつけ、鼻に近づける。
「生木(なまき)と油。……楔(くさび)を打つ前の木口(きぐち)みたいや」
鐘楼の上、梁の隅に雪が薄くまぶされ、そこだけ雪庇が欠けている。夜の間に誰かが上った痕やろう。
庫裏の軒先には、幅の広い雪の跡が一本延びていた。長持(ながもち)の底を引きずったような、そんな跡。啓太兄ちゃんが竹竿で周りの雪を崩す。
「そりで運(はこ)んだんや。板に乗せて」
わたしたちは、跡を追った。門の外で一度消え、また細い小路に現れる。稲架(はさ)木の足元に似た影。夏から秋にかけて覚えた、あの細道の通り方が、冬にも生きている。
昼、寺の縁側で正午の“寄り聴き”が始まった。ラジオは冬の雑音を多めに連れてくる。
《……兵庫県北部、強い寒波、積雪に注意……年末の火の用心……》
輪は、普段より静かだった。新聞の見出しには「帰省ラッシュ」とあるが、山の中のわたしたちに関係があるのは、天気と火の用心だけだ。澄江姉ちゃんが見出しに小さく指を置く。
「火と音は、人を集めたり、散らしたりする」
志乃さんが低くうなずいた。「光も、や」
夕方、富山の薬売り・弥兵衛さんが、雪をはらって現れた。冬にも来るのかと目を丸くすると、弥兵衛さんは「まいどはや。冬道はだやいちゃけど、寺(てら)へは寄るちゃ」と笑った。木箱の匂いは薬と木の油。
「撞木、どこへやったが?」
「まだ分からへん」
「なーん。足跡、去っとるがに見えるだけやちゃ。来とる。爪先の雪が語るちゃ」
そういう人や。いつも肝心なときに、短い言葉で背中を押す。
夜、雪はさらに積もった。わたしは明かりを低くして、提灯の灯心の長さを確かめる。南さんに言われて、鐘楼の周りの見回りを手伝った。鐘楼の基礎石は冷たく、呼吸が白い。
稔兄ちゃんが、懐から小さな反射板を出して見せる。
「夏みたいな火の玉はできん。雪が光を吸うから。せやけど雪の粉は、灯できらめく。揺れたら浮くように見える」
兄ちゃんは、石油缶の切り蓋を少し傾け、遠くの雪面に光を滑らせた。粉が舞って、淡い帯が走る。
「あの夜の光は、反射やない。灯そのものが、動いとる」
兄ちゃんの声に、わたしはうなずいた。提灯かカンテラ。それを高いところから揺らした。鐘楼。——じゃあ、撞木は?
翌朝、わたしたちは鐘楼の斜向かいにある庫裏の裏手を掘った。雪の壁を二尺ほど崩すと、板の角が現れた。息が詰まる。雪を払うと、それは撞木の一端やった。布で巻かれ、藁縄で固められ、雪庇の陰に差し入れてある。
「ここや」
惣介の声が低く響いた。南さんが布を解く。木口の割れに、薄い楔(くさび)が何本か打ってある。新しい油の匂い、蟻杢(ありもく)の光り。
稔が指先で撫でる。「割れ、進行(すす)む直前やった。今のまま撞(つ)いたら、飛ぶ」
「だれが?」
住職の声は静かやけど、わたしたちみんなの背中をまっすぐにする。足跡は逆向きのわらじ、板そり、藁縄の毛羽。寺の道具の手のにおい。わたしの胸に、ひとつの名前が浮かぶ。お父ちゃん(政吉)。
その名が口から出る前に、背後で咳払いがした。
「……わしや」
父が、雪の粉を肩に載せたまま立っていた。手には鉋(かんな)と小さな楔。指は冷えで赤く、目はいつもの山の目や。
「割れが年越しまでもたん。梁(はり)も結わえ直さなあかん。言うたら止める言(こ)たちが出る。せやさかい——一晩、わしが悪者になっとったらええと、思うて」
父は、鐘楼の梁の節を手の甲で叩いた。乾いた音。
「藁縄は中身だけ替えたる。楔打って、布で巻き直す。油さして一番は軽(かる)う撞(つ)く。二番からようけ。弥一、茶の仕度(したく)頼む。南さん、見とってくれ」
志乃さんが短く息をつき、それから笑った。
「名簿、掛幅、米に続いて、鐘か。守るためや言うて隠すのは、今年はこれで打ち止めにしよ。——正面で言うて、正面でやる」
住職は目尻の皺を深くした。「謝る者が一歩、許す者が一歩。二歩でええ。——政吉」
父は、深く頭を下げた。「すまなんだ。明里、稔、惣介、手ぇ貸してくれや」
昼から夕方にかけて、鐘楼の仕事が進んだ。楔は薄く細かく。紐は新しい心(しん)に替え、布を重ね巻きにして、油でなじませる。稔は反射板を片づけ、啓太は梯子の角度を調整する。春江は藁縄の結びを仕上げ、千代は帳面に一行、こう記した。
《本年冬、梵鐘撞木ひび割れにつき、楔打ち・巻直し。作業立会い、名を記す。》
澄江は、布の巻き目の止めを見て、「止めが、深い」と小さく言って微笑(ほほえ)んだ。止めの深さは、心の決めでもある。
夜、除夜の鐘の前。雪は弱く降り続けている。境内に人が集まり、口々に白い息を立てる。ラジオの砂の音が縁側から漏れ、新聞の見出しは、もう誰も見に来ない。いま必要なのは、紙や音より、ここにある鐘の音や。
「軽(かる)う、一本」
父がそっと言い、最初の一打をわたしに譲った。わたしは両手で縄を握り、胸の高さまで引いて、息を詰めて、放つ。
——とおん。
雪の夜に、音がゆっくり広がっていく。割れは鳴かん。楔は息を合わせている。
「二番」
今度は、少し強く。とおん。響きは深(ふか)い。
人が代わる代わる、数を刻む。南さんは控えに印をつけ、志乃さんは手を合わせ、住職は数える声を低く整える。弥一の茶は熱く、冬の胸に静かに沁みる。弥兵衛さんは袖を合わせ、「なーん、ええ音やちゃ」と目を細めた。
百八つ目の音が雪に吸われていくころ、わたしは空を見た。夏の火の玉は、もう浮かばない。冬の光は、ここにある。鐘の音と、人の息と、雪の明るさの中に。
今年は、いろんなものが消えては戻ってきた。名簿、掛幅、米、撞木。隠すことで守ることも、正面で言うて守ることも、両方覚えた。けれど、来年は先に言うて、皆で持つ年にしたい。そう思った。
音が止んだあと、鐘楼の梁にうっすら霜が降り、止めの布が白く息をした。父がわたしの肩を、冬の手でそっと叩いた。
「明里や。——よう見とったな」
「うん」
わたしはうなずいた。雪は静かに降り続け、足跡はやがてまた新しい雪に隠れる。けれど、手(て)の癖(くせ)も、声の揺(ゆ)れも、鐘の音も、今年のことはちゃんと残る。紙にも、音にも、人の胸にも。
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