2日目:先生、声がカエル

翌朝、病室の窓から差し込む光は眩しかった。

 昨日の「溶けないアイス」が終わってしまったのが、ほんの少し寂しい。

 でも同時に――奇跡が「現実だった」証拠でもある。


 春坂 悠真はベッドの上で伸びをしながら、ぼそっとつぶやいた。

 「さて、今日はどうするかな」

 椅子に腰掛けて本を開いていたルカが、顔を上げる。

 「奇跡の使用は一日一回。繰り越しは不可。早めに決めておくのも手」

 「分かってるけどさ。昨日がくだらなすぎたから、今日はちょっと真面目に……」

 と言いかけて、スマホの画面が点灯した。

 《本日、地獄の古文小テスト》

 送り主:桐谷 美咲。

 「……そういえば今日、学校」

 そう。俺はまだ“入院と通学の二重生活”をしている。医者は顔をしかめるけど、あと三十日なんだから、教室の空気くらい嗅ぎたい。




 昼休み。

 教室はざわついていた。前の席では、みさきがノートを広げて友達と必死に古文単語を潰している。

 担任の佐伯さえき先生がドアを開けて入ってくると、空気が一瞬で張り詰めた。

 この人はいい先生なんだけど、とにかく声が怖い。低いバリトンで、雷鳴みたいに響く。テスト前はその声だけで緊張指数が跳ね上がるのだ。


 「お前たち、準備はいいか――」

 ズシンと床に響くみたいな声。

 俺は思わず、ペンを握りしめた。


 ……そこで、ふっと頭に浮かんだ。

 昨日のルカの言葉。「負け方は選べる」。

 なら、今日の“負け方”をちょっと笑えるやつにしてもいいんじゃないか。


 「今日の奇跡は決めた」

 俺は小声で宣言する。

 「佐伯先生の声が、一日だけカエルになる」

 隣の窓際。誰も気づかない位置で、ルカがわずかにまばたきする。

 「承認」



 次の瞬間。

 「よぉし、それじゃ――ゲロッ、テストを始めるぞ」

 …………。

 教室が、一拍置いて、爆発した。

 「ぶっ、なにこれ!?」

 「ゲロッて言った!? 先生ゲロッて!」

 「わ、笑うな! 静かにしろ! ゲロッ!」

 笑うなと言うたびに「ゲロッ」がついてくる。

 もうダメだった。クラス全員が机に突っ伏して、笑いを殺すどころか倍増させている。


 みさきも例外じゃない。必死に口を押えて震えているけど、肩が揺れて止まらない。目が合った瞬間、二人して吹き出した。


 佐伯先生は耳まで真っ赤になっていた。

 「お、お前ら……ゲロッ、笑うなと言ってるだろ……!」

 もう完全にお笑い芸人だった。



 放課後。

 教室に残ったのは俺とみさきだけ。

 「……はあ、笑いすぎて死ぬかと思った」

 「お前が言うとシャレになんねえよ」

 みさきの笑顔が、夕日で少し滲んで見えた。

 「でもさ、たまにはこういう授業もいいよね。空気が軽くなったっていうか」

 「うん。まあ、先生は明日から地獄だろうけど」

 俺が言うと、後ろでルカがぽつりと呟いた。

 「帳尻」

 「また来たのか、帳尻」

 「先生は今夜、声帯を痛める。叫びすぎた。明日から数日は授業に支障が出る」

 俺は思わず眉をひそめた。

 「……やりすぎたか」

 「でも、笑った子どもたちは救われた。痛みと救いは、天秤の両側」


 みさきが不思議そうにこちらを見てきた。

 「悠真、誰と話してるの?」

 「いや、独り言」

 俺はごまかした。

 彼女にはまだ言えない。三十日のことも、奇跡のことも。

 でも――笑っている彼女を見られた。それだけで、今日は合格点だと思った。




 夜、病院のベッド。

 ルカがアイスの代わりに、蛍光灯を見上げていた。

 「くだらない奇跡でも、あなたは必ず“誰かの顔”を見る」

 「偶然だろ」

 「偶然は、奇跡の別名」

 俺は黙って天井をにらんだ。

 今日も一日、終わった。

 残り二十八。

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