ドレスコード∴ティーパーティー
祢狐
旅立ちの朝
すっかり夜も更けてきた頃、一人の幼い少女はなかなか寝付くことができず、ずっと布団の上で転がっていた。
「んぅ……」
彼女の名は
「んん……」
仰向け、うつ伏せ、横向き――コロコロと転がりながら体勢を変えてみたり、目を閉じてそのまま何度か深呼吸してみたりと彼女なりの工夫をしてみてはいるのだがまったく効果が出ないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
そんな彼女の脳裏にふとよぎったのは友人の言葉。
『眠れないときは、いつもお母さんにホットココアを作ってもらうんだぁ! お砂糖たっぷりでね、甘くておいしいの!』
甘くておいしいホットココア、それを飲めば自分も眠りにつけるのだろうか。
そう考えた彼女は、自然とホットココアを欲するようになった。
とはいえ、まだ自分でホットココアを作ったことがないうえに、そもそも家にあるのかすら曖昧である。
「おかあさぁん……」
目をゴシゴシとこすりながら、彼女はふわふわとした足取りで作業部屋にこもる母を呼びに行った。
作業部屋というのはもともと美空の母、
またある日を境に本棚やテレビなども撤去され、今は彼女の作業台ともなるテーブル二つと椅子、そして作業で使う素材の棚がある少しばかり殺風景な部屋だ。
床には見たことの無い機械のデザイン画や、可愛らしい洋服のデザイン画、中央に大きくバツ印がついていることからおそらくそれらの没案であろうものが描かれている紙が乱雑に捨てられている。
そんな中で麗海はただただ筆を走らせている。
その没頭具合と言えば、とてとてと可愛らしい足音を立てて近づいてくる美空の足音にも気づかないほどだ。
「おかあさん……」
作業の邪魔になっては行けないと、ノックをした後ドア越しに声をかける美空。
「おかあさん……?」
声が届かなかったのだろうか、不安になった美空はもう一度ノックをしてから、今度は先程よりも少しばかり大きめの声を出してみる。
が、それでも麗海からの返事は得られない。
「ごめんなさい……」
一言謝罪の言葉を口にして部屋の中へと足を踏み入れた美空は、大量の紙を足でかき分けながらゆっくりと麗海の方へと近づき、作業に没頭する彼女の裾をクイクイと引っ張った。
その時だった。
「見てわからない? 今忙しいの」
低く冷たい、まさに拒絶するような声。
「あ、あの……あのね……」
威圧的にも感じるその声に怯えた表情を見せながら、それでもなんとか言葉を発しようとする美空を見て、麗海は大きくため息をついた。
「邪魔しないでって言ってるの。それに、この部屋には入らないでって言ってるよね? それをわざわざ――」
「いい加減にしろよ」
麗海の声を遮ったのは、美空の父である
自身の寝室へと向かう途中に美空と麗海の声が聞こえて様子を見に来たのだ。
「仕事か作業か知らないけど、美空にも少しぐらいかまってやれよ。自分の子供だろ」
「普段から美空との時間を作ってるんだから別にいいでしょ。たまには一人の時間も必要なの」
そういう言い合いをするのも、美空の前ではあまりよくない。
斗彩は少しでも美空の精神的負担を和らげようと、彼女の頭をやさしく撫でた。
対する麗海はと言うと、すでに話は終わったと言わんばかりに作業を再開している。
長年の付き合いから、一度こうなってしまえばどんな言葉も意味をなさないことを斗彩は知っている。
「もういい。行くぞ美空」
「でも……ココア……」
「それなら、俺が作ってやるから早く飲んで寝ろ」
美空の腕を引いてキッチンへと向かう斗彩。
が、怒りが無意識のうちに彼の手に力を入れてしまったのだろう。
「痛いよ……?」
美空は涙目になりながら斗彩の顔を見上げ――。
「……っ!!」
午前三時、真っ暗な部屋の中目を覚ました美空はこれまで見ていたものが夢の中の出来事だったと知り大きく息を吐く。
あのような出来事を何度か繰り返したのち、気が付けば麗海は忽然と姿を消した。
『斗彩、美空のことをよろしくお願いします。このような母で申し訳ありませんでした』
そんな置手紙を残して。
作業台もテーブルも写真も、まるでもともとこの家に麗海の存在そのものが無かったかのように彼女のいた痕跡がなくなったものの、彼女が確かに存在したという事実は美空の存在が証明している。
「お母さん……。私、今日からいよいよ高校生だよ」
胸に手を当てて、はっきりと顔も声も思い出せなくなった母に声をかける美空。
もしも母がまだ家に居てくれたらどんな言葉をかけてくれるのだろう、彼女なりに色々考えてみるものの、いい答えは出てこない。
せいぜい、いつも通り無反応で作業を続けるか、よくておめでとうと軽く言われるぐらいだろう。
「はぁ……」
内心がっかりしながら、彼女は枕元に置いてあるペットボトルに手を伸ばす。
「うぅ……」
彼女をとある不快感が襲ったのはちょうどそのタイミングだった。
それは体や額にじんわりと滲んだ汗。
時間を確認してみたものの、斗彩が普段目を覚ます時間まではまだ二時間近くあることから今からシャワーを浴びることも憚られる。
とはいえ、このままもう一度寝るのもできそうにないし――などと考えていると、ゆっくりドアが開いた。
「なんだ、もう起きてたのか」
顔を覗かせたのは斗彩だ。
「おはよう、お父さん。今日は早起きなんだね」
「ああ、おはよう。まあ、美空の旅立ちの日だからな。最後ぐらい娘の顔を見たいっていうわけだ」
美空の通うことになる学校、私立
つまり、父娘の二人で生活するのも今日で最後となるわけだ。
「最後って……。また長期休暇の時には帰ってくるってば」
「それでもだなぁ……」
麗海が姿を消して以降、斗彩は美空に負担や苦労をかけないようにとそれまでにも増して仕事に力を入れるようになった。
その一方で麗海の時と同じような思いはさせたくないからと、美空と過ごす時間も同じかそれ以上取るようにしていただけに、いよいよ迎えた巣立ちの時をより寂しく感じていた。
「これじゃあ、どっちが親かわかんないじゃん」
そんな父親の姿を見て、美空はいたずらな笑みを浮かべる。
「そうだ、お父さん。シャワー浴びてもいい? 汗かいちゃって」
思い出したように言う美空に斗彩は呆れたような表情を見せる。
「おいおい、この時間からシャワーだけにしたら風邪ひくだろ。せっかくだしお風呂沸かしていいからゆっくり入ってこい」
「ありがとう、お父さん!」
とたとたと浴室に向かっていく美空を見送りながら、斗彩は小さく呟いた。
「麗海、美空は元気に育ったぞ」
「それにしても姫女か……」
お風呂が溜まるのを待ちながら、美空と斗彩はリビングで話していた。
話題はもちろん姫ノ宮女子学園のことだ。
美空が中学二年に上がった夏のこと、まだぼんやりとしか進路の決まっていなかった彼女のもとに一通の手紙が届いた。
差出人の名前もない真っ黒な封筒には、赤い文字で姫ノ宮女子学園入学推薦状と書かれていた。
ただでさえ聞いたこともない学校名な上にどこかホラーじみた封筒を警戒しながら開けてみると、そこには合格証書と書かれた賞状と生徒手帳、そして当日の案内が書かれた用紙とが封入されていた。
あまりの胡散臭さに詐欺のようなものだと思いながらも斗彩が検索してみたのだが、似たような名前をしている『
差出人が記載されていないため相手の住所を調べることもできず、学校への行き方さえも指定された駅からバスで向かうということだけが記されているだけであり、学園の情報に繋がるものはその名前以外何もなかった。
「……やっぱり詐欺じゃないか?」
その怪しさから封筒を捨てようとした斗彩だったが、そこに待ったをかけたのは美空だった。
「い、一応学校の先生に聞いてみてもいいかな? ほら、同じような人がいるかもしれないし」
美空の中には漠然としているもののどこか期待のようなものがあったのだ。
根拠は無いものの、まるで何かが変わるような、そんな感覚。
そして、当時の担任に封筒を見せた美空は、そこで初めて姫女についての噂を知ることになる。
「私立姫ノ宮女子学園!?」
奪い取るように封筒を美空の手から取ると、まじまじと手紙と封筒とを眺める教師。
やがて、そんな様子を不思議に思ったのだろう他の教師もぞろぞろと集まってきたかと思えば、同じように封筒をまじまじと見る。
「これって本物?」
「まさか本当にあったなんて……」
「この学校からなんて初めてじゃないか?」
状況に頭が追い付いていない美空をよそに、職員室全体がその話題で持ちきりになった。
そして、担任の教師は美空に知っている事情を話す。
一つ。
その学園には入試というものが存在せず、独自の基準により選ばれた人間にのみ、このような形で入学推薦状が届くということ。
二つ。
学校側としても姫女についてのある程度の情報は流れてくるものの、あくまで噂話程度のものであり、学園の内情までは明らかにされていないこと。
三つ。
内情を知らないこともあり、学校側としても入学に伴うトラブルについては深く関与できないこと。
「まあ、進路選択についてはまだまだ時間があるからゆっくり考えてみてもいいんじゃないかな?」
そう言われたものの、この時点で美空の答えはほぼ決まったようなものだった。
選ばれた人間にのみ。
その部分に美空は強く興味を抱いたのだ。
なぜ、どのような理由があって自身が選ばれたのかは分からないものの、少なくとも選ばれるだけの何かがあるというところに彼女は惹かれたのだ。
おまけに、とある事情から知っている人と同じ学校に進学することをなるべく避けたいという彼女の希望にもあっていることがよりその思いを強くさせた。
その後の美空の行動はいつにも増して迅速だった。
斗彩にプレゼンするために、学校のパソコンを借りて自分なりの説明資料を作成したり、どんな学校だったとしても勉強に置いて行かれないようこれまで以上に勉学に励んだり、そしてそれらを武器に斗彩と話し合いを重ねたり……。
「……わかったよ、俺の負けだ」
そして、その話し合いの末に、斗彩は自らの負けを悟った。
とはいえ、もちろん最初から本気で否定するつもりはなかったのだが。
とはいえ、斗彩もただで認めるわけにはいかない。
「ただし辛いこと、苦しいことがあったら迷わず帰ってくることが条件な? 麗海に続いて美空までいなくなるのは嫌なんだよ」
後半の方こそ聞き取れなかったものの、それでも斗彩が自分のことをどれほど思っているのか、美空ははっきりと理解できた。
「私が言うのも変だけど、よく認めてくれたよね」
「そりゃ、美空のことを信頼しているからな。それに今まで美空がこうしたいって思ったことで後悔したことはあったか?」
斗彩は笑いながら口にする。
美空はすっかり忘れていることだが、かつて斗彩が仕事のことで悩んでいた際に美空の言葉がヒントとなってその悩みが解決したことがある。
それに加えて、今まで彼女がこうしたいと望んだものに間違っているもの、後悔していたものは斗彩の記憶の中には存在しない。
「ないって言いたいけど、実はね……」
『お風呂が沸きました』
美空の言葉を遮るように軽快な音楽とアナウンスとが鳴った。
「そ、それじゃあお風呂入ってくるね」
慌ててその場を後にする美空。
彼女の思う後悔とは母に対するものだ。
――もしも母親のことをもっと理解しようとしていれば、もっと話をしていれば、何かが変わったのだろうか。
「ふぅ……」
美空がお風呂を終えてリビングへともどってくると、テーブルの上には朝食の準備が整えられていた……のだが。
「えっと……これ、何?」
レタスにトマト、きゅうりなどの野菜から、ハムやハンバーグなどの肉類、おまけにツナサラダやフルーツ、さらにはケチャップやマスタードなどの調味料まで。
困惑する美空に耳を切り落とし半分に切った食パンを渡す斗彩。
「最後の食事ぐらい、一緒に美味しいものを食べようかと思ってな。美空もいつもと同じ食事よりこっちの方がいいだろ?」
そう考えてたどり着いた答えがサンドイッチというのがなんとも彼らしいと感じる一方で、ここでステーキだとかカツだとかの重いものにならなくてよかったと安心してしまう。
「ありがとっ!」
斗彩から食パンを受け取ったものの、改めて具材を見て迷ってしまう美空。
そんな彼女を見て斗彩は一つ、アドバイスを送る。
「美空、これからは自分で選ぶことが増えてくるだろう。俺も毎日は一緒に居られなくなる。だからこその練習だと思え」
「わかった……!」
改めて具材を見渡す美空の脳内にいくつものイメージが浮かび上がった。
野菜を主体にしたサンドイッチ、ハンバーガーっぽくアレンジしたサンドイッチ、そしてスイーツをイメージしたサンドイッチ――それらを組み立てていると、斗彩は怪訝そうな顔を美空に向けた。
「そんなに食べて大丈夫か……?」
「だって、こんなに用意してくれたのに食べなかったらもったいないでしょ? それに、これを一人で片づける方が大変じゃない?」
ニコリとほほ笑む美空に対し、
「その辺は俺も考えてるさ」
斗彩は胸を張って答える。
とはいえ、斗彩の考えていることは置いておけないものを先に食べてあとは冷蔵庫なり常温で置きつつ適度に食べていくというものなのだが……。
ふと目に入った斗彩のサンドイッチに思わず美空は目を疑った。
「え、お父さん……?」
自分でも指摘されることが分かっていたのだろう、慌てて目をそらし、お皿を隠すかのように美空から離す斗彩。
彼が手にしたサンドイッチに挟まっているのは肉類ばかり。
たまに違うものがあるとしても、チーズや卵などの野菜ではないものだ。
そして、そこにさらにお肉を重ねていくのだから目も当てられない。
「お、俺は緑色のものアレルギーなんだよ」
「確か、前にキウイ食べてたよね?」
「間違えた。野菜アレルギーなんだよ」
「スイカは野菜だよ? いいから貸して?」
ひょい、と斗彩の手からサンドイッチの乗ったお皿を奪うと、一度積み上げられたそれらを分解。
そして、今度は野菜も交えてそれを組みなおしていく。
あとは色合いを見て足りないものを足していけば美空特製サンドイッチの完成だ。
「はいこれ」
渡されたものを、まるで怪しいもののようにまじまじと見つめる斗彩を見て美空は不安を口にする。
「はぁ……。私がいなくなってもちゃんと野菜取るよね?」
「あ、当たり前だ!」
「それじゃあ、いただきます」
「ふぅ……ごちそうさまでした。美味しかったよ、お父さん。片付けして行くから食器はそこに置いといて」
「いや、俺がやっておくよ。美空は忘れ物してないかとか確認してこい。家具はあっちで用意してくれてあるとはいえ、手ぶらで行くわけじゃないだろ?」
「だいたいの着替えも先に向こうに預けたし、あとほしいものは……。うん、一応確認しに行こうかな」
「ああ」
と食器洗いをしようとした斗彩だったが、不意に手を滑らせた。
パリンと音を立てて飛び散るお皿。
「だからやるって言ったのに。ケガしてない?」
「あ、あぁ……」
こうなった時のためにキッチンに常備してある塵取りと箒を使い斗彩は破片を集める。
「もう……仕方ないなぁ」
袖を少しだけまくり、美空は洗い物を始める。
「ケガすると危ないから破片触るときはちゃんと手袋してね?」
「はいはい、わかってるよ」
片付けや洗い物、それらが終わるころにはすっかり出発の時間が近づいていた。
「それじゃあ、行ってくるね?」
「ああ。ところで、約束は覚えてるな?」
「わかってる。辛くなったら連絡しろでしょ? 大丈夫、お父さんのことは頼りにしてるから」
頼りにしている、その言葉を聞き斗彩の口角が上がる。
「……夏休み待ってるからな?」
「うん! あ、もしかしたら友達も一緒に来るかもだけどいい? って言ってもできるか怪しいけど……」
「美空なら大丈夫だと思うが、その時はちゃんと連絡しろよ? とびきり美味いご飯作るからな」
「ほどほどに期待してるね?」
言いながら、じわりと美空の目に涙が浮かぶ。
「それじゃあ、行ってきます」
涙がばれることを恐れ、慌てて、それでも落ち着いて一歩ずつ先へ進んでいく美空。
彼女の旅立ちを祝うように、太陽は美空の進む道を照らす。
「ここから、始まるんだ……!」
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