おきつねさま・イン・ブリード
佳原雪
転生する男と狐の女神
生まれては死に、死んでは生まれた。私は流れる魂のひとつであり、ほかと違うことといえば前世の記憶がいくらか残る、それだけだった。
私の始まりはどこだっただろうか。遙か昔のことだ。そのときの私は男だった。貧しい土地に育った私には幼少の頃から集団内での役割があった。それは年をとるごとに変化こそしたが、割り当ての仕事が自分の望みと重なることはなかった。自己実現というのは贅沢品だ。勉学のために時間が必要だった。生活の中で、それらが得られることは永遠にないと思われた。
だから私は願ったのだ。山のほこらに行って『自分のために使える時間が欲しい』と。願いは叶えられた。尖って毛の生えた耳と、がまの穂に似た尾を持つ女が現れて、私をさらった。河原の丸石よりなめらかな白い肌や、つやのある長い髪、厚く重ねた着物は異界のものを思わせた。たどり着いた広い屋敷の中で、ぼろを着て縮こまる私へ食事と服と湯を与えると、女は精巧なつくりの顔を歪めて、働かずともよい暮らしを約束した。
昼は働かず、好きなことが出来る。言葉に嘘はなく、私はほつれのひとつだってないような服を着て、隙間風の入らない部屋で、字の書き方や墨のすりかた、書物の読み方を習った。食事の世話や風呂の用意は女がした。話に聞く、殿様のような暮らしだと思った。むしろの代わりに綿の入った布団が、板間の代わりに畳が与えられ、そのかわり夜は相手のものになった。
いつしか子が生まれ、暮らしは賑やかになった。自分は若い頃に比べていくらか肉がついたが、相手は出会った頃の姿を寸分の狂いなく保っていた。私が病に伏せったのはいつ頃だっただろうか。起き上がることのできなくなった私の胸元にすがりついて、彼女がわんわん泣くのを見た。もう少し長く生きて、この人に報いたいと思った。思いが届くことはなかったが、一緒に生きたいという願いは歪な形で叶えられることになる。
目が覚めたとしかいいようがない。ずっと眠っていた種子が芽吹くように、休眠していた苔が水を得て青く光るように、十五を過ぎた私は唐突に記憶を取り戻す。そんなことが幾度もあった。見知った屋敷、見知ったようでどことなく違和感のある顔のきょうだいたち、親しんだ味付けの料理。少しずつ変わる景色。生まれては死ぬ。死んでは生まれ変わる。いくたりも、いくたりも。男であるときも、女であるときもあった。たくさんいるきょうだいに育てられ、また、たくさんのきょうだいの世話をした。字を習い、教わったように下へ教えた。屋敷の中で巡り会ったきょうだいたちは私の知らないことを知っていた。母のこと、勉強のこと、屋敷のこと。反対に、私だけが知っていることもあった。時間が経過していた。眠る間にも、目覚めを得てからも、時間ばかりが経過していく。
きょうだいはいつだってたくさんいた。姉も兄も弟も妹もいた。だが、母と呼ばれるのは決まって一人だけだった。なにひとつ変わらないただ一人の『あの人』は、最初の私が死んでから部屋にこもるようになっていたと聞く。私たちきょうだいはみな短命で、三十までは生きなかった。そのせいか、生きている間、一度も母の姿を見ないこともあった。母は時折部屋から出てきて、年頃のきょうだいを連れていく。私が選ばれることもあったし、きょうだいとして見送ることもあった。母が選ぶのは決まって、身体に傷のない男児だった。そうだ、みんな身体に傷があった。腰と、頭だ。同じ場所にあるので、なるほど遺伝的なものなのかもしれないと思った。
母の生活空間は訪れるたびにものが増えていった。懐かしいものもあったし、知らないものもあった。ふしどに入って思い出を語れば、母は最初ひどく驚いたようだった。それからは選ばれるたび、ずっと待っていた、と言って少し泣いた。一度の生で一緒に暮らせるのは十年余り。私たちは交わり、また新しく子が生まれた。産褥に立ち会うことは許されなかった。どの子供にも、頭と尻に傷があった。首の据わったばかりの子をあやしながら、この子も三十までは生きないであろうと思った。私の子だ。病に倒れ、打ち勝つことが出来なかった私の。
母の部屋は、夫となった男へ、最初の私と同じことをさせるために整えられていた。私は早々に子供を取り上げられ、勉学に励むよう言われた。この部屋に入ることが出来るのは、頭と尻に傷のない、男の身体で生まれたときだけだ。それは百数十年に一度、長く見積もっても十五年ほどの期間しかない。私は勉強をした。夜は変わらず母のものだった。長く空いた期間を埋めるように必死で勉強をした。未来方向に伸びる無制限の生とは対照的に、費やせる時間は限られていた。
母であり、妻であり、記憶の中のあの人でもある女は、出会ったときと同じ姿をしている。あの頃と同じ暮らしをしている。私という人間にとらわれて、再演をしようとしている。ずっと、ずっと。あの人は尋常の生き物ではない。それは自明のことだ。この暮らしがおかしなことだとは薄々わかっている。いくら世間知らずの田舎者だったとはいえ、私も長くを生きてきた。満ち足りることがあったなら、気が済むことがあったなら、母はこの無限の待ちぼうけから解放されるのだろうか。私を待つことはもうやめて、元のように暮らしてはどうかと提案してみようか。だが、しかし、私はあの人と出会う前のことを何も知らない。ならば、最初の私がするはずだったことを手紙にしたためてみようか。この先、五百年でも千年でもあの人が退屈しないように。ああでも、時間が足りない。今生の残りはあと四年。
◆
わたしは四つ耳の神である。山の祠に封じられた御霊である。捧げられた供物を検分しては、畑に雨を降らせたり、雲を裂いたりして暮らしてきた。そんな折、男がやってきた。少年というには年嵩の、垢じみた汚らしい人間だった。祠の前に立つ男は、ギザギザに荒れた爪のついた手をもみ合わせるようにして、懇願というのがしっくりくるような口ぶりで願い事を口にする。『それ』を連れ帰ろうと思ったのはほんの気まぐれだった。頼み事をするのに干からびたひしの実を袋に半分持ってくるのがせいぜいのくせに、だいそれた望みを口にするものだと思った。わたしは願いを叶える手伝いをする対価としてそいつを婿にした。どこにでもあるような、ただそれだけの話だった。
やせっぽちで毛並みも悪く、目つきだけがぎらぎらとした男だった。男は、自分の時間がほしいと願った。怠惰で不遜な人間だ、と思ったが、人間などどうせすぐ死ぬだろうから飼ってみるのも悪くないと思った。思っていた。洗ってきちんと毛並みを整えたそいつは存外普通で、しゃべってみれば考え方もそう俗悪なものではない。箸の使い方も身体の手入れもひどいものだったが、教えればその都度覚えた。寝るとき布団を簀巻きにしようとするので、手本のために横で寝た。暮らしの動作を覚えさせるつもりで同じ寝具へ寝る内に、肌を重ねる仲となった。
読み書きを学びたいといった男のために紙と書物を用意した。そもそも字がわからないというので、棒きれを渡して地面に書くところからやった。何をしているんだか、と思ったが、男は真面目な顔で聞いていた。子供を育てるというのはこういう風か、と思っている内に、わたしの腹に命が宿った。子を産むにあたり、人間のように苦労することはなかった。生まれたのは、耳も尾もない、正真正銘、人間の子だった。それが五体。玉のような子供だった。それからは嵐のようだった。吹き荒れる風のように日々は過ぎていった。子に振り回され、勉学のために書物を探し、日々の糧を得てはみなに食わせる。思えば幸福な日々だった。だが、そうしている内に男は死んだ。流行病だった。はじめの頃、確かにどうせすぐ死ぬとは思ったが、いくら何でも早すぎる。短い間に情がわいていた。これはわたしの誤算だった。
わたしは四つ耳の神である。山の祠に封じられた御霊である。外に出ることは叶わず、捧げられたものしか得られない。わたしは少しの間、忘れ形見の子供たちと過ごした。これはわたしが得たものだった。誰にも盗られることのない、わたしだけの。そこまで考えて、わたしは二つのことに気がついた。夫は死んでわたしの元を去っていき、おそらく子供たちもそうなるであろうこと。夫の痕跡は子供たちに受け継がれてること。五人いる子供たちを見て、だれのどことどこをつなぎ合わせれば夫と同じになるのか考えた。似ているところはそれぞれ違った。つなぎ合わせるのがうまくいくかはわからなかった。だから、一番利口な次男にたずねてみた。似たものが五人いれば、望んだ人間一人を作ることは可能だろうか、と。
次男は少し考えたあと、まっすぐ目を見て答えた。母の主張はわかりました。しかし、自分たちからおとうさんをつくったとして、いつかは死んでしまう。ならば、自分と交わって次の子を産んではいかがでしょう。自分たちは人間です。自分たちにおとうさんの面影があるのならば、いつかは必ず命は尽きます。子を作り、血脈を繋いでいけば、そのうちに再び巡り会うこともあるでしょう。つまりは、生まれ変わりを待つのです。わたしは深く感心し、次男を褒めた。そして、いつかくる夫の転生を信じて、すすめる通りにした。
わたしは神であり獣だ。人間ではない。お産が軽いのが幸いして、計画はつつがなく進められた。利口さや野心、興味関心の向き、顔かたち、子供たちに現れる様々な要素はすべて面影の一側面であり、わたしを喜ばせた。子供たちが両親どちらに似るのかは半々だった。わたしは婚姻可能な年齢のもののうち、いちばん夫に似ているものをその時々の伴侶にえらんだ。それでも、代を重ねることで、獣の特徴を持つものが現れた。わたしと同じように。それはだんだん増えていった。夫の面影が消えていく。わたしは牙を研ぎ、狐の耳や尾は赤子のうちに切り落とした。へその緒と同じだと思えば心も痛まなかった。
わたしとおなじものが生まれれば耳を切り、狐が生まれればたたき殺した。一度、耳のない女に産ませたりもしたが、お産に耐えきれず死んでしまったので二度はやらなかった。耳を切り落とした子と交わり、さらに何代かすると、また人間の子供が生まれるようになった。その頃には夫の魂が現世に帰ってくるようになっていた。わたしは祠で願われた最初の望みを叶え続けた。喜んで欲しかったから。若い身体でまた会えるのがうれしかったから。この人に会えるのならば、変化のない屋敷ぐらしも悪くないと思えた。
つるりとした白い肌の夫は桃色の爪でペンを握りながら、難しい顔で机に向かっている。勉強を続けても、果てがないと度々口にしていた。でもわたしは知っている。一つの目標を得て、そこへ向かう喜びを。何かを得るために努力をすることの尊さを。きっと、そのうちに新しいことを考えついて、わたしを驚かせてくれるのだろう。それは、愛しい人との再会を叶えるための提案をした次男のように。続く利発な子供たちのように。
わたしは四つ耳の神である。山の祠に封じられた御霊である。捧げられた供物を検分しては、畑に雨を降らせたり、雲を裂いたりして暮らしてきた。得られるものに限りのある暮らしの中で、わたしは愛しい人を見つめている。回避できない別れのあとに、愛しい人がわたしの元を訪れるのを待っている。ずっとずっと暮らしは続く。しばしの退屈と幸福の中で。
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