第6話 本当の音

 雨の日のアンサンブル以来、僕たちの録音は、少しだけ変わった。

 響さんは、僕に「音」の指示を出すだけでなく、「どう思う?」と意見を求めるようになった。でも、僕の中に、小さな澱のようなものが溜まっていくのを感じていた。


 その日も、僕たちは音楽室にいた。


「今日は、ピアノの音と、あなたの音の対比を録る」


 慣れた手つきでマイクをセッティングする響さんに、僕は思い切って声をかけた。


「なあ、響さん。ちょっといいか」


「なに? マイクのセッティング中だから、後にして」


「いつもそうだ。俺のこと、見てるようで見てない。聞いてるのは、俺の立てる物音だけ。俺自身じゃなくて」


「……何、言ってるの。あなたの音が、あなた自身でしょう」


「違う! 俺は……音を出すための道具じゃない!」


 自分でも驚くくらい、大きな声が出た。ずっと溜め込んでいた不満が、一気に溢れ出した。


「……音無くん?」


「響さんにとっては、俺の呼吸も、瞬きも、全部ただの『音源』なんだろ! 俺が何考えてるとか、どうでもいいんだ!」


 僕はかっとなって、そばにあった機材ケースを思わず蹴ってしまった。ガシャン、という大きな音が響く。


「あ……!」


「あっ、わ、悪い……! つい……」


 倒れたケースから、あのバイノーラルマイクが転がり落ちる。まずい、と思った。彼女が一番大事にしているマイクが、床に叩きつけられ――


「危ない!」


 響さんが、マイクを庇うように床に倒れ込んだ。ドン、という鈍い音が響く。


「響さん!?」


 駆け寄ると、彼女は自分の身体を盾にして、マイクをきつく抱きしめていた。


「だ、大丈夫か!? 怪我は……」


「マイクは……無事。よかった……」


「マイクより、自分の心配しろよ! なんで、こんなもの庇って……!」


「……大事、だから。あなたの音を、録ってくれる……大事な……」


 その時だった。

 ドクン、ドクン……。

 今まで聞いたこともないくらい、大きく、強い心臓の音が、僕の耳に直接、飛び込んできた。

 違う。これは、響さんの音じゃない。俺のだ。

 心配で、後悔で、ぐちゃぐちゃになった感情が、音になって溢れ出している。


「……あ……」


 顔を上げると、響さんが、目を見開いて僕を見ていた。ヘッドホンは、倒れた拍子に外れている。彼女は、僕の耳元で囁いた。


「……聞こえる……。凪じゃ、ない……。温かくて、強くて……でも、すごく優しい音……」


「響さん……?」


「……これが、あなたの、本当の音……? ごめん……なさい……。私、今まで、何も聞こえてなかった……。あなたの、一番大事な音を……聞いてなかった……」


 彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 床に落ちた雫は、まるで、新しい曲の、始まりの一音のように、小さく、響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る