第4話 奏のヘッドホン
週が明けた月曜日。昼休みの喧騒は、いつも通り、耳をつんざくような音の洪水だった。
食堂に向かう人の波、廊下で騒ぐバスケ部員の大きな声、女子グループの甲高い笑い声。その全てが混じり合って、巨大なうねりとなっている。僕はその波を避けるように壁際を歩いていた時、人混みの中にうずくまる、小さな影を見つけた。
「響さん? どうしたんだ、こんなところで」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。いつも着けている白いヘッドホンを、両手で耳に強く押し当て、苦痛に顔を歪めている。
「……うるさい……」
「え? 声が大きいやつでもいるのか? 俺、注意してこようか?」
僕が見当違いの心配をすると、彼女は弱々しく首を振った。
「違う……。声じゃ、ない……。人の、音……。全部、混ざって……頭に、直接、響いてくるの……」
その言葉で、僕ははっとした。彼女の言う「音」が、ただの話し声ではないことを。嫉妬、焦り、優越感、自己嫌悪……。この廊下を行き交う何百人もの剥き出しの感情が、ノイズの濁流となって、彼女に流れ込んでいるのだ。
「大丈夫か? 保健室行くか? それとも、どこか静かな場所に……そうだ、音楽室とか、この時間なら誰もいないかも」
「……あなたの、そばなら、大丈夫」
彼女はか細い声で、僕の制服の裾を掴んだ。
「あなたのそばにいると、少しだけ、楽になる。あなたの凪が、私の周りに、見えない防音壁を作ってくれるみたいで……」
「防音壁……。俺、なんかしてるつもりないんだけど」
「何もしなくていいの。ただ、そこにいてくれるだけで、私の周りの空気が、少しずつ澄んでいく感じがする。……ねえ、お願いがあるんだけど」
「な、なんだ?」
「普通に、呼吸してて。あなたの、いつもの静かな呼吸の音を聞いてると、周りのざわめきが、だんだん遠くなっていくから……」
僕は何も言わず、彼女の隣にしゃがみこんだ。そして、言われた通り、ただ、ゆっくりと息を吸って、吐いた。不思議なことに、それだけで彼女の強張っていた肩の力が、少しずつ抜けていくのが分かった。
「……ありがとう。もう、だいぶ平気」
しばらくして、彼女は顔を上げた。まだ顔色は白いけれど、さっきまでの苦しそうな表情は消えている。
「そっか。よかった。……いつも、こんな感じなのか? 昼休みとか、人が多い場所は」
「うん。私のこの耳はね、呪いみたいなものだと思ってた。聞きたくもない音が、選べずに勝手に入ってくるから」
「聞きたくもない音って……」
「笑い声の裏にある嫉妬とか、優しい言葉に混じる嘘とか……。全部、濁って聞こえちゃうの。綺麗な音楽みたいには聞こえない。だから、いつもヘッドホンで壁を作ってた。自分の世界に、閉じこもってた」
「……そっか。大変だったんだな」
「でも、あなたを見つけて、初めて感謝した。この耳があったから、あなたの特別な音に気づけたから」
「特別な音って……何もない、ただの無音だろ。俺、自分でもつまらないって思うくらい、何もないのに」
「ううん。何もないんじゃない。何もない、という音なの」
彼女は少しだけ身を乗り出して、僕の目をまっすぐに見つめた。
「例えるなら、まだ誰も絵を描いていない、真っ白なキャンバスみたいな音。だから、どんな綺麗な音よりも、心が落ち着く。それは、世界で一番、優しくて、綺麗な音だよ」
そう言って、彼女ははにかんだ。
「……ふふ。あなたの心臓、今、少しだけ音がしてる。温かい、音が」
「う、うるさいな……」
僕は照れ隠しに立ち上がると、彼女に向かって手を差し出した。
「……行くか。音楽室。ここよりは、静かだろ」
彼女は僕の手を数秒見つめたあと、ためらうように、そっとその小さな手を重ねた。
僕の平凡で、無個性で、コンプレックスだった「無音」が、誰かを救えるのかもしれない。そう思うと、胸の奥が少しだけ、温かくなった。
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