第14話

 日陰と日向の境界線。天国と地獄を分けるかのような境目を、僕は見ていた。


 もうじき昼を回って、太陽も真上に来るだろう。そうすればこの日陰もきっと消える。


 今日の朝でこの場所に留まるのは最後で、今からまた別の場所に行くことになる。


 一〇時のチェックアウトと支払いを済ませ、先に言っててと彼女に促されては、ホテルの外にあるベンチで待つことしばし。

 暑い。一度中に戻ろうかと思ったが、立ち上がることさえ億劫だった。


 動いているのか、動いていないのか。境目を不毛に見続けていると目が回りそうで、ホテルの前を通っている大通りに目を向ける。


 右から左へ。左から右へ。雑踏は途切れることなく、流れは止まることなく動き続ける。

 どこを切り取ってみても代わり映えのしない景観の中に、ふと、一箇所だけがやけに浮いて見えた。ここに訪れている大多数の人が持っている感じとはどこか異質な雰囲気がその人たちにあった。


 ちらと彼らの方に視線をやると、タイミング悪く、振り向いてきた目と合ってしまう。そして遅れて、彼らの異質さの正体に気づいた。しかも運の悪いことに、彼らのうちの二人が明らかに僕の方に近寄ってくる。


 独特な鍔の形をした帽子。濃い藍色をした制服。警察だった。


 じわりと嫌な汗が滲んで、微かに指先が震えているのが分かる。

 思い浮かんだ最悪の展開は、けれど絶対ないと即座に否定する。


 警察を前にして近寄りたがるものはおろか、距離を取りたいと思うのは僕だけに限らず、常人として当然といえる反応だろう。けど変に怪しまれたくないという思いと、今動き出しても遅いという諦めが、恐怖と一緒に僕をその場に留まらせた。


「ちょっといいかな?」


 恐怖は拭えない。口元を引攣らせたのは、きっと気付かれているだろう。


 焦るな、と自分に言い聞かせる。今は一人の子供として、多少の恐怖や動揺が是とされる人種として振る舞うしかない。


「な、なんですか?」


「そう怖がらなくて大丈夫だよ。ちょっと人を探しててね、ここら辺で聞いて回ってるんだ」


 震えた声でそう返すと、警察の男性は緊張を解そうとしているのか、微笑を浮かべて声音を柔らかいものにしてくる。


「君、この辺りでこんな女の子を見かけなかったかな?」


 それから、写真を一枚取り出して見せてきた。


「……ぇ…………?」


 こんな嫌な偶然があっていいのだろうか。

 既視感なんてものではない、散々刻み込んできた記憶と一致する。


 その整った顔立ちも、長い茶髪も、浮かべる無機質な笑みも。


 微かに覗かせる、青く滲んだ痣も。


 彼女だった。


 高ぶる鼓動に、視界が大きく見開いてしまう。

 それが最も取ってはいけない反応だと、そして、もう遅いと悟ったのは、ほんの一瞬後。


「何か知っていることがあれば、教えて欲しいんだけどな」


 腰を折り曲げて聞いてくるその人は、表情を一切変えていない。けど違う。


 瞳の奥に揺れる感情は、一切の偽りを見逃さないと僕を射止めてくる。そこには悪に対する敵意はなく、それでも僕にとっての恐怖であることに変わりない。


 彼の行いはあくまで善行。恣意的な行動ではなく、民衆への安全を、悪人への罰をと、敷かれたルール上でのもの。だからこそ、彼の映す感情に意思がなく、あるべき形を型取ったようなその善意は、狂気のように見えてならなかった。


 言わない。絶対に、言ってたまるもんか。

 嘘を取っても、真実を取っても、先に光はなく、あるのは後悔の闇だけ。


「いえ、その、この人が着ている制服、見たことあったんで……」


 ある意味、これは真実の一つ。けど、話の核心からは少し逸れたもの。

 それでも、嘘じゃなければいいのだ。そうすれば、少なくとも無意識下の言動で足元を掬われることはない。


 もしかしてと、分かりきった上で高校の名前を告げてみる。


「もしかして、君もその高校の生徒さん?」


「ええ、まあ」


「そうなんだ、まさかこんな遠い場所で生徒に会うなんて思わなかったなぁ。でもまあちょうど良かった。なにかこの子について知ってることがあれば教えて欲しいんだけど」


「それは、ごめんなさい。自分あまり人付き合いなくって」


 自虐というものは、関係が浅ければ浅いほど相手を遠ざけさせる効果がある。

 これ以上聞き込みづらい感じを出して、引いてくれればいいのだけど。


「うん、ありがとう。時間取らせてしまってすまないね。もしよければお友達とかに聞いてくれたら助かるけど、一応番号だけ渡しとくよ」


 差し出して来た紙を会釈して受け取り、ざっと見る振りをして仕舞った。


「あ、あの」


 連れのもう一人を先に戻らせ、残った警察に口をついて出る。先を促すように視線を向けてくる彼に、おずおずとした様子を装って続けた。


「その子、何かあったんですか?」


 このまま終えて安全を取ろうとする感情に、けれど少しでも状況を理解しておくべきだと訴えてくる理性が、そう言葉を発させた。身体が怯え、萎縮しそうだった。それでも言ってしまったからにはと、決意と一緒にゴクリと飲み込む。


 間が怖い。沈黙が痛い。考える素振りを取る警官は、僕を見据えて静かな声音で言う。


「どうしてそんなことを聞くのかな?」


 図るような言葉。嵌められたと錯覚してしまうほどに、声のトーンが下がる。

 断られるか、笑って話してくれるかの二択だと、無意識のうちに決めつけていた。

 さっきまでの理性は壊れ、ボロボロと崩れかけのそれが、必死に言葉を紡ぐ。


「こんな、離れた場所で探してるってことは、よっぽどなことなんじゃないかな、って」


 目が笑っていないと、自分でも分かるほどに頬は強張り、引き攣っている。

 目の前に憚る強大な畏怖は、僕の中を抉るかのように見出そうとしてくる。


 見透かすのではなく、絞り出そうとするような。不快感や異様さではなく、直接触れられ、力を加えられているような、痛覚に近いそれ。


「…………ぁ、あの」


「たしかにそう思うよね。君は旅行か何でこっちに来てるのかな? そうだったらニュースもまだ見てないかもしれない」


 耐えかねて遠慮しようとしたところに、一転して警官の明るい口調が割り込んでくる。それから、少し過激な話になるけど大丈夫かと確認を取られ、頷くと警察の人は話し出した。


「教えると言っても、ニュースで報道されていることぐらいだけどね。えーっと、四日前に男性の殺人事件があってね。その子供がさっきの子で、今行方不明で探しているところなんだ」


 そこまでは知っている。夜にニュースで見たままのことだ。


「最初は誘拐の線で捜索してたんだけど、どうにも辻褄が合わなくてね。それで彼女に関与が、あるんじゃないかって考えが現状かな。まあ探してることに変わりないんだけど」


 僅かに言葉を濁したのが分かった。けどさすが警察、それ以上は見れそうにない。


「僕から言えるのはこれくらいかな。それじゃ、ご協力感謝します。ありがとうね」


 決まり文句なのか、子供への遊び心なのか、如何にも警察っぽい挨拶と軽めな敬礼の仕草を取ってから、踵を返していった。

 全身に強張っていた力が抜けるとともに、詰まりそうだった息を全て吐き出す。それでもまだ指先は震えたままで、目に見える不安を隠すように僕は両手を握り込んだ。


 一先ず、この場所は離れたほうがいい。


 何かを考えようにも、今は出来そうになかった。何故と疑問が反芻されるだけで、ぐるぐると渦巻く何かとしか認識できないそれは、纏まることを知らない。


 早く、彼女が来てくれないと。


 僕の不安の根本にあるのは、きっと彼女がいないことだ。目に見えない、認識できない、それらが生む焦燥感に駆り立てられて、僕は一度、ホテルに入ろうとした。


「うわぁっ! ……って君か。どうしたの? そんなに焦っちゃって」


 ロビーに入りかけた直後、自動ドアから準備を終えて出て来た彼女と鉢合わせた。

 相変わらず重そうな荷物に目を向けそうになったけど、今はそれどころじゃない。


「準備は終わったんだ。忘れ物とか大丈夫?」


「うん、ごめんね待たせちゃって。でも、暑いから中で待ってればよかったのに」


「いや、日陰で待ってたからそんなもは……とりあえず、すぐに」


 この場所での居た堪れなさに、足早に駅に向かおうとしたとき、警官がまだ先の場所で留まっていたらしく、タイミングの悪いことに、見られた。

 僕だけならまだしも、隣にいる彼女までも。


「早く来て」


「えっ、ちょっと!?」


 考えるより先に手と足が動いていた。

 彼女の手首をおもむろに掴み、早くも近づいてくる彼らを尻目に、逃げ出した。


「ちょっと、そこの君たち」


 ホテルの横口から出て、大通りへ。幸いにも通行人が多く、紛れるように人混みの中へ入っていく。直前、声を上げた警官の一人が駆けてくるのが見えて、一層足を早めた。


「ねぇ」


 なんで。


「ねぇ、ねぇってば」


 どうしてこんな場所に。


「…………」


 なんで、僕の邪魔をするんだ。


「ねぇ、聞こえてるなら返事してよ! 一体どうしたの」


 ぐい、と腕を引かれた。いや、掴んでいた手を彼女が引き解いたのだ。


「っ、いいから今は——!」


 その続きに何を言おうとしたのかは曖昧だった。明確な言葉は分からなくても、多分、自身の憤りを表す。

 察しろとか、分かってくれとかいう、身勝手な言葉だったと思う。


 けど……


「そんな、怖い顔しないでよ」


 そのどれもが喉に詰まって、声にはならなかった。

 彼女の不安を滲ませる表情は、僕の熱くなった感情を冷ましていく。こっちまで不安になりそうな彼女の眼差しに、一度頭を振った。


「ごめん、でも今はついて来て。あとでちゃんと説明するから」


 伝える暇はない。だからせめてもの言葉を、落ち着いた声音で告げる。


「分かった。あとでね」


 納得はしていないだろうけど、それでも頷いてくれる彼女に、少し救われた気分になる。

 それからどちらからともなく手を取り、駆け足で人混みを進んでいく。


 後ろからずっとついて来る騒めき。警察が生み出しているだろうそれは、徐々に距離を詰めているように感じる。こっちは子供で、しかも僕は人並み以下の運動能力しかない。このまま走って逃げるには分が悪すぎる。


 なら駅に向かって電車にと、過ぎった思考に、疑念が生まれた。


 なぜ、警察は僕僕らの居場所が分かった?


 現場からは随分離れている。形跡を辿ったのだとしても、先日着いたばかりのホテルの前で捜索していたのは、単なる偶然で割り切れることじゃない。


 発信機でも付いてなきゃすぐに分かるわけがない。


「そうだ、君のスマホ」


「え、私の携帯がどうかしたの?」


 確証はない。けど、考えている時間はもっとない。


「君のスマホ、親に居場所が分かるように何か設定されてない?」


「えっと……多分、買ったときにされたかもしれない」


「今すぐ電源落として。あと、出来れば念のためカードも抜いといて」


「え、うん。分かった」


 電源ボタンを長押しし、ブラックアウトした画面を確認して僕は小さく頷きを返す。人混みの間から覗く駅の表記を見つけ、流れを横切るようにしてそこへ向かった。


 何処へ向かう電車かは後回しに、真っ先に到着するものを掲示板から探す。見つけるより早く、電車の到着を知らせるアナウンスが入った。


 考える余地は無しに、階段を半ば飛ぶように降りて電車に駆け込む。


 駆け込み乗車の注意喚起のアナウンスの後、空気を吐き出して扉が閉まる。


 電車が走り出してもすぐに安心できるはずもなく、むしろ張り詰めた空気に神経がガリガリと削られていくばかり。周囲の人間に全感覚を張り巡らせ、しばらく経って何事もないことにようやく追われていないと安心、安堵の息を深く吐き出す。


 あいにく席は埋まっていて、彼女を扉横の手摺りに、僕は扉に背を預けた。


「さっき説明するって、言ってたけど……」


 まだ息が整いきっていない彼女のタイミングが掴めず、曖昧に切り出す。


「ここじゃちょっと、無理かな」


「そうだね」


 緊張が解けたお陰で、余裕も出てきたのだろう。先の説明を急いで求めてくることもなく、この場では控えようとする僕の内心に静かに同意してくれた。


「次、どこか行く宛てはあるの?」


「スマホ切ってる限りはひとまず大丈夫だと思う。この先で乗り換えて、少し遠くに行ったほうが安全かな」


 もはや、僕らの目的は旅行どころではなくなった。


 警察からの逃亡。然るべき現実で、ずっと目を逸らしてきた事実。

 もう、昨日までみたいに、楽しい思い出は作れない。


「あと残り、どうしたら……」


 ぼそりと、不安が口から溢れた。


 逃げて辛い思いをするなら、いっそもう終わった方がいいのではないか。

 この後どうなるか分からないなら、今を最期にした方が幸せではないか。


 そもそも、一週間なんてその場の思いつきでしかなかった。この考えが途中で諦めるようなものでも、一番現実味のある終わり方なのだ。


 そしてこれは、きっと甘えだ。彼女なら甘んじてこの終わりを受け入れてくれると、身勝手に思い込んでいるだけなのだ。今までずっと受け入れてくれて、許してくれたからと、今も甘えようとする、僕の甘さであり、弱さだ。


「おっと、大丈夫?」


 考え事に耽っていた僕の元に、揺れでよろけた彼女がのしかかってきた。


「ごめん。足踏んでなかった?」


「平気だけど、なんか顔色悪いよ、きみ」


「うそ? そんなことは……」


 言いながら、折りたたみ式の小さな鏡を取り出して自分の顔を見つめる彼女は、間も無くして、うわぁと引き気味の声を漏らした。


 僕は先に寝てしまって彼女が何時まで起きてたのかはわからない。けど、よくよく見ると薄い隈ができている。十分に寝れてないのだろう。


「うん……そうかも。遅くまでテレビ見てたからかな」


 あはは、と空笑いをする彼女に、微かな違和感を覚えた。


 今まで何度となく彼女が見せてきた空っぽの笑みと彼女の作り笑いが、今日は不自然に引き攣っていた。顔に貼り付けた笑みの仮面が欠け、内に潜む感情が見えかけては引っ込んでを繰り返している。


「少し寝てたら? 着いたら起こすよ」


「……そう、だね。お言葉に甘えて、少し休ませてもらうよ」


 駅に止まって人が降りていく。空いた一席に彼女を座らせ、僕はその前で立つ。


 電車が走り出して間もない内に彼女は船を漕ぎ出し、数分で眠りに落ちた。

 膝から落ちそうなバッグを自分の足元に置いて、ポシェットもその上に置いてやる。


「僕も、どこかでゆっくりしたいけど」


 あくびを噛み殺しながら、静かにぼやいた。


 元より眠りの浅い方ではあった。それを抜きにしても、この旅行中の疲れは溜まっていく一方だった。特に精神面のそれは一層酷い。僕の神経質さ故の彼女への心配による気疲れはもちろんのこと、慣れない外出だ。しかも子供だけで遠出なんて、慣れないことはするものじゃなかった。


 一度、落ち着ける場所に行きたい。


「久しぶりに、あっちに帰るか」

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