誰のせいでもない -ある刑事の記録- 何故、佐久間修は死んだのか
Spica|言葉を編む
プロローグ
月曜、午後三時。
東京港区の高層マンションの一室は、時間が止まったように静かだった。
書斎の窓際には、深緑のカーテンが引かれ、柔らかな午後の光を鈍く遮っている。
空調は切られていたが、室内は驚くほど整っていた。机の上に無造作なものは一切なく、ペン立てさえ、きっちりと正面を向いていた。
ロープは、書斎の天井梁に結び付けられていた。革張りの椅子が一脚、真下に倒れている。
男はそのロープに首を通したまま、わずかに足先を浮かせるようにして、静止していた。足の下には、何の抵抗も、暴れた跡もなかった。
ただ、椅子が静かに倒れているだけだった。
遺書はなかった。
室内には何ひとつ、「別れ」を告げる紙片も、言葉も、残されていなかった。
あるのは、徹底的に整理された空間と、沈黙だけだった。
最初に異変を察したのは、定期清掃に訪れたメイドだった。
鍵は預けられていたが、入室の際は必ずチャイムを鳴らす決まりだったという。
応答がなかったため、不審に思い、ドアを開けた。そしてその光景を目にした。
数分後には警察が到着し、応急処置も行われたが、すでに死後推定三時間。
司法解剖の初見では、死因は明確な縊死。外傷なし。事件性は一切認められず、刑事課も動員は不要と判断された。
だが、一人だけ現場に残った男がいた。
警視庁捜査一課の
彼は書斎の中央で立ち尽くし、無言のまま室内を見渡していた。
「……全部、整いすぎてる」
声はかすかだった。だがその口調には、経験則では説明できない違和感がにじんでいた。
あまりにも整然とした空間。
まるで、自分が死ぬことを“誰かに見せるために仕込んだ”ような死に方だった。
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SNSではすぐに《#佐久間修を偲んで》というタグが広がり、
「こんな立派な人が」「一度話しただけでもわかる人柄」──と、誰もが“佐久間を知っていた”かのように語り始めた。
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翌日の昼。テレビでは、佐久間修の死が大きく報じられていた。
《実業家・佐久間修氏、死去》
──数多の経済再建に貢献。
晩年は福祉・文化支援に尽力。
画面には、彼が設立した佐久間財団での慈善事業の様子や、震災被災地の学校に寄付を贈った場面が映し出されていた。
スーツ姿の彼が子どもに微笑む映像のあと、ナレーションがこう結んだ。
「まさに、現代の社会的ヒーローでした──」
葛木は、そのテレビ画面をじっと見つめていた。やがて、そっと手帳を閉じる。
「……何も問題なかった人間が、なんでこうなるんだ。いや──“何もなかった”と思われていただけなのか。」
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