第12話
翌日―。
少し重い身体を引きずるように布団から身を起こす。
夕べは、途中から何も覚えていない…。
枕元に目をやると、昨日謙信さまから貰った鈴が置かれていた。
私は身仕度を整えると、その鈴を帯に付けた。
何だか、嬉しい。
好きな人から貰った物がこんなに嬉しいなんて…。
私は指で鈴を突っつくと、リンリンと綺麗な音を鳴らした。
「おはようございます。」
そこへちょうど、お里さんと、お夢さんが部屋に入ってくる。
「おはようございます。
あの、昨日の事なんですが…途中から記憶がなくて…。
私、景虎さまに何か失礼な事はしてないでしょうか?」
「………。」
二人とも、顔を見合わせてにんまりと笑っている。
「どうかしました?」
「夕べ眠った姫さまを、誰が運んだと思います?」
「………?」
「景虎さまなんです!!」
「景虎さまが!?」
「はい。私びっくりしましたよ!!
まさかあの景虎さまが女子を抱いて寝所までお運びするなんて!!」
「私もです!!」
お里さんもお夢さんも、凄い興奮気味でかなり盛り上がっている。
「私たちだけなく、あの場にいた者、全員が、呆気に取られていましたから!!」
「しかも、護衛の重盛さまの手を遮って、わざわざ殿自ら姫を運んで下さったんですよ。」
「…あまり騒がないでください。
そんなに騒がれると恥ずかしいです。
景虎さまにはきっと深い意味は無いと思いますし…。」
素直に言うと、凄く嬉しい…。
本当にそうだったら、どんなに嬉しいか。
でも、ここで喜んだとしても、傷つくのは自分だ…。
だって私…謙信さまが一生独り身だった事を、知っているから。
生涯、妻も側室も置かなかった事を、知っているから。
二人が喜び騒いでいる姿を見て、歴史の中の、謙信さまが"特別な人"を持たなかった事を思い出す。
「姫…?」
二人は、落ち込む私をなぜか不思議そうに見つめた。
「…何でもありません。お腹が空きました。
さあ、朝餉を食べましょう!!」
私は今にも涙を零しそうになるのを必死で堪えると、無理矢理笑顔を作って朝餉が用意されている部屋へと足を運んだ。
「…はい。」
二人はそれ以上何も言わなかった。
謙信さまから貰った鈴が、少しだけ切なげに音を立てた。
一方、謙信の方は−
「殿は伊勢姫の事をどのようにお考えなのでしょう?!」
朝から柿崎と直江から質問責めにあう。
こうなることは解っていた。
「殿!!これは長尾家全体に関わる事!!
お答えくだされ!!」
興奮する柿崎とは対称的に、宇佐美定満と甘粕景持は沈黙を貫いている。
「黙れ!!」
謙信は、唸るように怒鳴ると、低く澄んだ声で答える。
「私が信じ、仕える者は毘沙門の神のみ!!
心を預けるのもまた同じ!!
そなたは何を恐れる!?
私の心を信じぬのか…。」
「…景虎さま。」
「私は『生涯不氾』を貫く気持ちに変わりは無い!!
それはこれから先も変わらぬ!!」
「伊勢は、ただの人質だ。女子だからと、少しばかり気にかけただけ…。
それを、よこしまな思いで見るな。」
「………。」
「これ以上この件に関して騒ぎ立てすれば、私は仏門に帰依する所存…。
肝に銘じよ!!」
「「はっ…。」」
柿崎は納得できないようだったが、謙信の迫力にその場にいた誰もが、それ以上何も言わなかった。
今日も稽古着に着替えて重盛さまの待つ庭へと向かう。
竹刀を持ち、小さな池を眺める彼の姿が見えると、私はすぐに声をかけた。
「重盛さま、お待たせしました。今日もよろしくお願いします。」
重盛さまは、ゆっくり振り向くと、その表情は酷く暗いものだった。
「どうしたのですか?」
私が問いただすと、彼は目を伏せる。
「いえ…あの、姫は…景虎さまの事を、どうお思いなのでしょうか。」
「えっ…。」
「実は…昨夜の一件で、景虎さまが家臣の者達から、…色々と、云われているようなのです…。」
私のせいで!?
「…姫さまはもともと、敵国から『人質』として来られたお立場…。
景虎さまの事を思うのであれば、もう少しお控えられた方がよいのでは?」
「………。」
「私も姫にこんな事を申したくはないのです。
しかし、事が大きくなって参りましたので…。」
「私…景虎さまが、そんな事になっていたなんて、全然知りませんでした。
私のせいで、そんなに迷惑をお掛けしていたなんて…。」
「…殿は、そのような事を云うような方ではありません。
全て一人で解決なさろうとするお方。
それは、姫もご存知でしょう?」
「…はい。」
「でしたら…姫がやるべき事はお判りでしょう…。」
「はい。重盛さま…教えて下さってありがとうございます…。」
「いえ…では、私はこれで…。
姫の屋敷での護衛は続けさせて頂きますので、ご安心を…。」
重盛さまは、私に頭を下げると、私を置いて姿を消した。
彼が消えた後、私はその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。
あれから散々泣いた後…
私は井戸で顔を洗い、自分の部屋へと戻った。
「姫さま!?どうなさったのですか?!」
お夢さんは私の顔を見て驚きを隠せないようだった。
私にも、もう無理をして笑う余裕など残されていなかった。
「…ごめんなさい。
今日は一人にして下さい。」
それだけ答えると、私は自分の部屋へと入った。
リンリン。
謙信さまから頂いた鈴を見つめる。
昨夜の幸福な時間が、まるで嘘だったかのように…鈴の音が悲しい響きに聞こえてくる。
その可愛らしい音色を聞く度に
さっきまで止まっていたはずの涙が自然と零れ落ちた。
「…景虎さま。」
瞳を閉じると、
謙信さまが私を見る優しい眼差しや
不器用に笑う笑顔が
頭から消えない。
ただ…謙信さまと話をするのが楽しくて…
一緒に居られることが嬉しくて…
それだけで幸せだった…。
ここに来て…毎日が一生懸命だった。
でもそれは
謙信さまが私を支えてくれたから…
受け入れてくれたから…
だから、この世界に来てもけして苦じゃなかった。
でも…
本当は…迷惑だったんだ…。
そんな事にも全然気付かないで、
私は彼を好きになっていた…。
なんて、図々しい女なんだろう…。
全てを知ってしまった以上
もう…謙信さまを困らせる訳にはいかない…。
謙信さまへの思いを諦めなくちゃ…。
私は覚悟を決めるように、鈴を帯から外すと、それを小箱の中にそっと閉まった。
夜になりお夢さんが部屋を尋ねてきた。
「姫さま、少しよろしいでしょうか…。」
「…どうぞ。」
お夢さんが静かに部屋の戸を開ける。
「姫さま…お加減は大丈夫ですか?」
「…もう落ち着きました。」
お夢さんは部屋に入ると笹団子を差し出した。
「どうぞ…。甘いものを食べればお気持ちも少しは晴れましょう。」
「お夢さん。」
彼女の温かい心遣いに涙が溢れる。
「姫…私でよければお話し下さい。
侍女としてではなく友人として…。」
「ありがとう…ございます。」
そうして私は、重盛さまから聞いたこと、
そして謙信さまに対する自分の思いを、
お夢さんに話していった。
「姫さま…さぞお辛かったでしょう。」
お夢さんは私の話をすべて聞いた後、その手を握りしめた。
「つらい立場なのは、私でなく景虎さまの方です。」
「無理なさらないで下さい…茜さん…。」
久しぶりに呼ばれる自分の名前。
本当の自分。
そう…私は姫でも…伊勢でもない。
もう、本当の自分さえ解らなくなっていた。
ここにいる時は伊勢姫でなければならない…。
『篠田茜』でいることは許されないし、誰も本当の私を望む者はいない…。
でも…お夢さんに呼ばれた時…本当の自分に戻りたいと思った。
何の地位も立場もない…ただの"茜"に…。
いま私を、そう呼んでくれるのは目の前に居るお夢さんだけだ。
「お夢さん…ありがとう。
私の名前…呼んでくれて…。」
「茜さん…自分の気持ちを殺すことなんてありませんよ…。」
「お夢さん…。」
「だって…伊勢姫さまと私にそう教えてくれたのは、茜さんじゃないですか?」
「…でも。」
「私…景虎さまも、茜さんの事が好きなのだと思います…。」
「………。」
「人を思う気持ちは無理に消せるものではありません…。
今は叶わなくとも…いつか実る恋もありましょう。
それを教えてくれたのは茜さんでした。」
「私…ですか?」
「これを…。」
お夢さんは懐から手紙を取り出した。
「上野国の殿からの手紙です…。今日届きました。
伊勢姫さまと伊織さまの間に、お子が出来たそうです。」
「本当ですか?!」
「…はい。
お二人ともお幸せそうにしているそうです。」
「よかった…。」
「でも、このお二人を結び付けたのは、茜さんなのですよ…。
二人は結ばれる筈のない定めだったはずなのに…茜さんが来てから、その運命が変わりました。」
「伊勢姫さまが…自分の気持ちを秘めていた時に背中を押したのは茜さんです。
茜さんの存在が、伊勢姫さまの人生を変えました。」
「………。」
「茜さんが、景虎さまを好きになったのも…なにか意味があるのではないでしょうか…。」
「意味が…?」
「…はい。伊勢姫さまの身代わりになってここに来た茜さんが、景虎さまに恋をするなんて…
私には何かの運命のように感じます…。」
「そうでしょうか…?」
「そうですよ…。
だから今ある…そのお気持ちを、どうか消さないでください。
私はずっと、茜さんの味方でいます…。
どんな時も…。」
「…お夢さん。
…ありがとうございます。」
お夢さんの言葉と…
伊勢姫が、大好きな人との間に子供を授かり幸せに暮らしている事が嬉しくて…
私の心は少しだけ軽くなった。
でも、この会話を人に聞かれている事に
この時、私とお夢さんは
全く気付かなかった。
深夜―。
謙信の部屋を尋ねる影があった――。
謙信は人の気配に刀を構えると、
障子に映る"その者"の影を捉えた。
「景虎さま、このような時間に、申し訳ありません…。
急ぎ、お伝えしたき事がありまして、罷り越しました。」
謙信は、聞き覚えのある声に刀を引くと、静かに答えた。
「…聞こう。」
影は小さく頷くと、言葉を続けた。
「実は、伊勢姫さまの事について
…とても興味深い事を知りました。」
「姫についてだと…。」
景虎の反応に、その"影"はニヤリと笑う。
「はい。実は――。」
強い風が吹く秋の初めの夜。
春日山にも、嵐が吹く匂いがした。
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