第7話

あれは、まだクラリスが中学三年のときだった。

友達と駅で別れ、いつものように裏通りを歩いていた。

その瞬間、平凡で退屈だとさえ思っていた日常は――一瞬で崩れ去った。



---


「――声を出すな」


背後から冷たい声。

腕を乱暴に掴まれ、口を塞がれ、視界を黒い布で覆われる。

そのまま、トラックの後部へと押し込まれた。


闇の中。

鼻をすする音、押し殺した嗚咽。

そこには、何人もの少女の気配があった。


(なに……これ……なにが起きてるの……!?)


答えはすぐに突きつけられた。

それは、“人身売買”だった。


運ばれた先は、廃工場のような建物。

さびついた鉄骨、油と血の臭い。

逃げ場はどこにもなかった。


クラリスは、絶望した。



---


そのとき――


バン、と乾いた銃声が夜を裂いた。


「……侵入者!?」「警戒しろ!」


怒声が響く。

扉が蹴り飛ばされ、冷たい風が吹き込んだ。


逆光の中に、ひとりの少年が立っていた。


黒い戦闘服。

まだ幼さの残る顔立ちに、腕や肩には無数の傷痕が合った。

手には血に濡れたナイフ。

瞳だけが、鋭く、まるで大人のように光っていた。


「……クラリス、って子はいるか?」


「わ、私……!」


「よし、先に連れて行け。他は俺が抑える」

 

「分かった!セナ、無茶はするなよ!」


仲間の大人にクラリスを託すと、少年、セナは再びナイフを構え、闇の中へ飛び込んだ。


その背中――

血に染まりながらも、少女たちを守るように戦う姿が、クラリスの瞳に焼き付いた。


(誰……? セナ?……)



---


後日、クラリスは保護された。

だが事件は政府によって闇に葬られ、真相は誰にも語られなかった。


ただ、クラリスだけは知っていた。


あのセナという少年が命を賭けて、自分を守ってくれたことを。

あの瞬間、自分の人生は救われたのだということを。


(――もう一度、会いたい)


その願いが、クラリスを動かした。



---


彼女はすぐに“能力”を発見される。

事件に巻き込まれた同級生の記憶を、無意識に消してしまったのだ。

周りからその能力を恐れられ、避けられるようになったクラリスに、接触してきたのが政府の秘密組織だった。


「君の力を活かせる場所がある」


普通の生活には戻れない。

なら――せめて、あの少年に近づけるなら。


クラリスは迷わなかった。



---


 過酷な訓練も、死と隣り合わせの任務も。全部耐えられた。


「もう一度、彼に会えるのなら」


その想いだけで、クラリスは生き抜いた。


断片的な記録や噂を必死に探し、やがて一つの名前に行き着く。


――セナ。


若き諜報員。

現場での殺害数は群を抜き、任務成功率も異常。

敵からは「死神」と呼ばれ、仲間からも恐れられている。


(そんな……やっぱり、あの時の彼だ……)



---


そして、運命の日。


夜の作戦室。

任務前、クラリスは彼と向かい合った。


壁にもたれて銃を点検するその姿。

少し背が伸び、幼さは消えていたが――瞳は、あの夜と同じだった。


「……君が、セナ?」


クラリスの声は震えていた。


「君……まさか、あの時の……」


セナが驚いたように目を見開く。


「無事だったんだな。……よかった」


その声は優しかった。

だが次の言葉で――クラリスの全身に衝撃が走る。


「……あの頃、俺、まだ12歳だったから」


(じゅ、12歳……!?)


クラリスは愕然とした。

あの時、自分を救ったヒーローは、大人なんかじゃなかった。

自分より幼い――ただの少年だったのだ。


血まみれになりながらも、少女たちを守ったその背中。

あれほど重いものを、幼い身体で背負っていた。


クラリスの胸が、締めつけられた。


(どうしよう……目が離せない)



---


任務が始まる。廃倉庫での制圧作戦。


セナの動きは異常だった。

銃声は無音のまま敵を刈り取り、影のように姿を消し、再び現れる。

彼の瞳は、感情を殺しきっていた。


「……これが、彼の戦い方」


クラリスは息を呑みながらも援護を続けた。


だが、不意の敵が飛び出した瞬間――


「クラリス!!」


セナが身を投げ出し、ナイフを受けた。

左手を貫かれて血が噴き出す。


それでも彼は止まらない。

刃が突き刺さったまま拳を振るい、敵を倒す。

そして、血だらけで笑った。


「……クラリス、無事か?」


その姿に、クラリスの胸が震えた。


「な、んで……そこまで……!」


「任務だから。あと……君が死んだら、俺が一人になる気がしたから」


その言葉は――あまりに孤独だった。

彼がどれだけ独りで生きてきたのか、胸に突き刺さる。



---


作戦車両の中。

クラリスは震える手で彼の応急処置をしていた。


「……もう、無理しないで」


そう告げたとき――セナが口にした名前。


「ベル、って人がいたから。……俺、生きてこれたんだ」


その瞬間、クラリスの心臓が凍りついた。


(ベル……?)


彼にはすでに、自分以外の存在がいる。

帰りを待ってくれる人が。

命を懸ける理由が。


(……恋人……だったんだ)


わかってる。

自分は“任務で助けられただけ”。

セナの心には、すでに別の人がいる。


だけど。


(悔しい……)


クラリスは気づいてしまった。

胸の奥で、燃え上がるような嫉妬。

羨望と焦燥と、どうしようもない独占欲。


「……よかったね。帰る場所があって」


笑おうとした。

でも声は震えていた。


(もし、私が彼の隣にいたら――)


クラリスの心に芽生えたそれは、ただの憧れでも感謝でもなかった。


それは“恋”であり――同時に“執着”の始まりだった。


(セナ……あなたは、もう私の理由になった)


たとえ世界が拒絶しても。

たとえ彼の心に“ベル”が残っていたとしても。


クラリスの激重な感情は、もう止められなかった。



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