【第三部 穴】第八章 数え声
演習室の隅に、四つの小さな□を貼ったまま残しておいた。黒板の脇、窓側、扉の上、天井の梁。四つ角に“椅子”が据えてある空間は、静かに整っている。僕と水城は視聴覚機材庫から借りた古い四チャンネルの録音機と、予備のICレコーダーをいくつか持ち込み、教室の四隅へ設置した。マイクはそれぞれ隅の“椅子”のわずか内側。面ではなく、角の呼吸を拾うためだ。
「手順は簡潔に。話さない。動かない。四をこちらで“座らせたまま”聴く」
水城は頷き、机上のスマートフォンに「四つ角(二)」と仮の名をつけ、時計と録音機の時刻を合わせた。四時四十四分までは、静かに波形だけを見て過ごす。画面に走る線は、ほとんど真っ直ぐだ。ただ、四隅のチャンネルだけ、底に細かい粒が揃っていた。粒は、呼吸の大きさではない。角の“揺れ”に似ていた。
四時四十四分になる直前、教室は、目に見えるものがひとつも増えていないのに、急に狭くなった。空気が薄くなるのではない。面が近づく。面が近づけば、角は出る。僕らは視線でだけ確認を取り、同時に録音を開始した。
──無音が来た。
けれど、底は静かではなかった。
四つのチャンネルが、時間を置かず順に膨らむ。右上、左下、左上、右下──。膨らんだ瞬間だけ、波が丘のかたちになり、すぐ戻る。戻るたび、次の隅が膨らむ。膨らみは、四百四十四ミリ秒ずつ、正確に“ずれる”。耳ではつかめない刻みが、波形には明瞭だった。
──いち。
──に。
──さん。
──し。
声は、四つの隅に分解されていた。ひとつの喉から出たはずの四拍は、四隅へ散り、散ったまま、順に戻る。戻るときだけ、声は“文”になる。文になった刹那、教室の四隅が同時にわずかに座り直し、椅子は目に見えないまま重くなる。
録音を止め、波形を拡大する。四つの丘の最後尾、いつも通り、微かな乱れがあった。御子柴のため息に似た、鼻先のさざなみ。だが、今日はもうひとつ、別のものが見えた。四つの丘の前後に、同じ長さの“無音の帯”が、うっすらと寄り添っている。帯は無音なのに、粒がある。粒は、語ではない。身振りだ。
逆再生に切り替える。
向きを、変える。
面が、ついてくる。
スピーカーから、帯の底で擦れる音が立ち、次に、淡い呼気が遡った。呼気のすぐ後ろに、短い言いさしが浮く。
──……う し ろ。
それは言葉というより、身体の向きだった。四つ角を座らせると、無音の帯でさえ“うしろ”の形を持つ。僕は別ファイルに抽出し、波の谷だけを繋いで再生した。四隅が、谷だけで文になる。谷は、光の当たらない場所の音だ。そこにも、向きは宿る。
もう一度、通常再生に戻し、今度は四つのチャンネルを別の手順で重ねた。右上と左下を同位相で重ね、残りのふたつを逆位相で合わせる。もしこれが単なる一つの声なら、ある程度は打ち消し合うはずだ。だが、結果は違った。消えたのは、数の“い”“に”“さ”の部分だけで、最後の拍の子音──**「し」だけが、どうしても残った。位相を入れ替えても、場所を変えても、「し」**は薄くなるだけで消えない。
件名の「し」。
紙の差出人の「し」。
四の最後尾に残る、口の形。
「“主語”は、ここだけ消えない」
僕の独り言に、水城は静かに頷いた。彼女は黒板の隅の□へ指を置き、もう一方の手で窓側の□にも触れる。四隅が、指の腹の形でわずかに明滅し、明滅の端で、息がひとつだけ落ちた。落ちた息は、御子柴の癖を持っていた。けれど、それは御子柴だけのものではない。教室の“面”が吸った息に、御子柴の癖が混ざっているのだ。
そのとき、机上のスマートフォンが震えた。件名は、一文字の「し」。着信時刻は、四時四十四分。僕らは通話を取らず、録音だけを回した。スピーカーからは、やはり無音が流れ、帯の底で、紙の擦れる音が静かに往復する。往復の間隔は、やはり四百四十四ミリ秒。間隔の途中に、小さな触れ音が四つ。机の角、黒板の枠、窓の桟、梁。四つの角が、順に“うなずく”。
「向こうは、ここを部屋として読んでいる」
水城が低く言う。「四隅の名前で、部屋を呼ぶ。部屋の名前は、面の数で決まる」
僕は録音を保存し、今度は視聴覚室から借りてきた安物の指向性マイクを、ふたりの“背中”に向けて立てた。振り返らずに背中を聴くためだ。マイクの先だけが、床に落ちる影の四隅と一直線に並ぶ。僕は椅子に座り、背筋を伸ばす。水城も同じ姿勢を取る。四時四十五分。いつもより一分遅い。四の外側に、四を置く。
──いち。
背中の浅いところで、音が生まれた。皮膚の“表”より少しだけ内側。触れないのに、触れられたみたいな“押し”が生まれ、押しの端で、衣擦れの音がひとつ立った。録音機のメーターは小さく揺れ、波形はやはり丘になった。
──に。
今度は、椅子の座面の四隅で音がした。木ではない。紙でもない。面の音だ。面が呼吸して、角が座る。座った角は、語ではなく、拍だけを置く。僕は喉の奥で無意識に拍を取ろうとして、舌で止めた。合わせない。合わせれば、揃う。揃えば、向こうが整える。
──さん。
天井の梁の隅で、埃がちいさく落ちた。落ちた埃は、落ちる音を持たない。だが、落ちたあとの“軽さ”が、耳より先に肩へ触れる。肩が撫でられる。撫でたものは、指ではない。四つ角の芯のような、乾いた冷え。
──し。
最後の拍は、背骨の浅いところで止まり、止まった温度だけが、しばらく抜けなかった。録音を止める。波形の最後尾には、やはり「し」が残る。御子柴のため息と、教室の面の呼吸と、僕の背中の薄い冷えが、同じ場所で重なっていた。
「“し”が消えない限り、主語は向こうにある」
僕は言い、立ち上がった。水城も立ち、黒板の隅から指を離す。四隅の□は、座り直すように、わずかに光って消えた。消えたというより、“引っ込んだ”。椅子は片づかず、ただ見えなくなっただけだ。
教室を出る前、僕は四つの録音を重ね、再生速度をほんの少しだけ落とした。四百四十四ミリ秒ではなく、四百五十ミリ秒。四の外へ、半歩押し出す。音は、少しだけつまずいた。つまずいた場所で、無音の帯が短く崩れ、崩れた隙間から、別の言いさしが覗いた。
──……お も て。
面。
こちらの“表”。
触れられるのは、ここ。
僕たちは録音を保存し、ファイルに「数え声」と名をつけた。名は、こちら側の手順だ。名を置けば、座り方がひとつ決まる。決まった座り方の分だけ、向こうの四は遅れる。遅れた四は、濃く“いる”。
夕方、校舎を出ると、風が出ていた。樹影は揺れ、影の四隅だけが地面に深く刺さっている。僕は足を止め、背中の皮膚が浅く冷えるのを確かめ、言葉を持たないまま頷いた。明日は、背中をやる。振り返らずに、背中を聴く。向きは、こちらで決める。
その夜、家で録音を聴き直した。部屋の灯りを消し、机の角に肘を置き、スピーカーの面を伏せる。伏せた面は、音の“表”を隠す。表を隠すと、裏が出る。裏は、向きだ。向きは、四に座る。
──いち、に、さん。
そこで、やはり止まった。
四は、来ないでいる。
だが、音だけは、先に背へ触れていた。
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