【第二部 鏡】第六章 影

 午後の雲は、校舎の輪郭を曖昧にした。光はあるのに、面が立たない。面が立たなければ、影は濃くなる。僕と水城は準備室ではなく、視聴覚室を借りた。遮光カーテンを半分だけ閉め、窓際から伸びる淡い明かりを、わざと斜めに入れる。机の上には白い正方形はない。鏡も布をかけたまま置いてきた。今日は、光と影だけを見る。


 スクリーンを下ろし、天井の古いOHPを点ける。透明フィルムに□を描き、レンズの焦点をずらして、壁にぼんやりした四角い光を作る。輪郭は柔らかい。角は溶けている。だが、床に落ちた僕らの影は、なぜか四隅だけが濃かった。足首の影と床の線が交わる場所が、四つ、墨のように沈んでいる。


 「角が、光を選んでいます」


 水城が囁く。彼女が立ち位置を半歩ずらすと、角の濃さも追随して動いた。角は僕らの影についてくるのではない。僕らの影が角へ寄る。寄って、止まる。止まったところで、乾いた声が、ひとつだけ数を落とした。


 ──いち。


 声は、ここでは続かない。続かないのに、続きがあるのがわかる。二、三、四は、この室内のどこかに置いてある。置いたのは、たぶん僕らではない。


 僕たちはスクリーンの手前に折りたたみ椅子を置き、その座面の四隅に、小さな黒いテープを貼った。影の角が、そこに“座る”かどうかを見たかったのだ。OHPの光をほんのわずかに上げ、□の位置を椅子に重ねる。影の輪郭が揺れ、角だけが椅子の四隅へぴたりと吸い込まれた。吸い込まれた途端、室内の空気が、ぐ、と浅く詰まる。


 ──いち、に。


 声が、今度は二まで来た。水城が小さく息を呑む。椅子は空のままなのに、座面の影が重くなった。そこに“座っている”のは、体重ではない。手順だ。四つ角へ先に座り、面を後から借りる座り方。


 「“数える役”をここに留められるかもしれない」


 僕が言うと、水城は頷いた。彼女はスクリーンの端にもう一脚、椅子を置き、同じように四隅に印を作る。ふたつの椅子のあいだに、影が細い帯になって渡る。帯は、OHPの熱でふわりと揺れ、揺れの節で、声がひとつ、また落ちた。


 ──さん。


 僕はOHPの焦点をさらに外し、□の輪郭を意図的に崩した。角が曖昧になると、影の角が勝手に濃さを補う。補った濃さが、座面の四隅に沈む。沈むたび、椅子の脚がきしみもしないのに、床がわずかに軋んだように感じられた。音ではなく、足裏の感覚でだ。


 「四で止めたい」


 水城が、静かに言った。彼女は椅子の背もたれの上に手を置き、軽く押した。押すというより、そこにいる“誰か”の肩に触れる身振りだ。触れた瞬間、スクリーンに映る□の角がふっと暗くなり、室内のどこかで、四つ目の拍が小さく跳ねた。跳ねた拍は、声にならず、乾いた息だけを残す。


 ──……し。


 かすれた四は、ほとんど呼気の形をしていた。御子柴の、あの癖。録音の波形で見た、尾の乱れ。僕は喉の奥で短く応えそうになり、舌で止めた。数えない。合わせない。合わせれば、こちらが整う。整えば、掟も整う。


 視聴覚室の後方のドアが、風もないのに数ミリだけ浮いた。軋みはない。浮いた隙間から廊下の光が細く入り、床に薄い四角を置く。四角の四隅だけが、他より早く暗くなった。暗くなった隅は、同時に“口”にも見えた。開かない口。開いているのに、音が漏れない口。


 「角、動かします」


 水城が椅子を一脚、わずかに横へずらす。影の帯がいっしょに滑り、四隅の濃さが座面から床へ移った。床の四角は、やがて壁へ、壁から天井へ、天井からスクリーンの余白へ──と、面を選びながら上っていく。どの面にも、角は四つある。角が四つある場所には、四が来やすい。


 ──いち、に、さん、……


 今度は、四の手前で、声が意図的に止まった。止めたのは、こちらだ。僕はOHPを消し、遮光カーテンをさらに引いた。光が減り、面が一段やわらぐ。影は濃くなるが、輪郭は甘くなる。甘い輪郭では、角は息をしづらい。息をしづらくなった角は、わずかに細り、床の線の上で“痩せて”見える。


 そのとき、机上のスマートフォンが震えた。件名は、一文字の「し」。着信時刻は、やはり四時四十四分だ。視聴覚室の薄闇のなかで、黒い画面が四角く光る。僕は再生しない。けれど、スピーカーの穴から、ほとんど無音の“吸気”だけが、ひとつ漏れた気がした。機械が息をするはずはない。が、面が移っていれば、穴は呼吸を真似る。


 「場所を変えましょう」


 水城が言い、僕らは視聴覚室を出た。廊下の床は、昼よりさらに白い。蛍光灯の列が天井で伸び、その真下、床に長く帯が落ちる。帯の四隅──そう、帯にさえ四隅はある──が、歩くたび足に絡む。絡まれても、僕らは数えない。足取りの拍に、四が割り込まないよう、間をずらして歩く。


 四階の突き当たり、いつもの“開かずの扉”の前に来た。ガラスは曇っていない。だが、誰かが近づいたときにだけできる四角い曇りが、まだ新しく残っている。曇りの四隅が、うっすらと脈を打った。脈は、こちらの心拍に合っていない。合わないのに、合いそうになる。僕は胸に手を置き、拍をひとつ遅らせた。


 「先生、扉の影」


 水城の指す床を見た。ガラス戸の足元、床に落ちた扉の影は、枠どおりの四角だ。だが、その四隅だけが、ほんのわずかに“枠の外側”へ滲んでいる。滲んだ先に、小さな黒い点が四つ、点滅する。点はやがて細い線になり、線は薄い文字になる。読む順は右から左へ。


 ──ふ り

 ──か え

 ──る な


 扉は、こちらの掟を、こちらへ返す念押しだった。ふりかえるな。読んだ瞬間、影の四隅は、枠の内へ戻った。戻ると同時に、廊下のどこかで、短い息が四つ、順に落ちた。誰かが、数の代わりに息だけで拍を取ったのだ。


 「 “四を渡す”場所を、こちらから決められるかもしれない」


 僕は扉の脇の壁に、紙テープで小さな□をひとつ作った。手のひらより少し大きい正方形。角が立つよう、指の腹で念入りに撫でる。撫でるたび、テープの四隅が、紙ではないのに、紙のような音を立てた。ぱさ、ぱさ。音はすぐ壁に吸われ、代わりに影だけが濃くなった。


 角は、壁へ移る。

 面は、足元へ降りる。


 僕と水城は、扉を背にして並び、壁の□から視線を外さず、廊下の反対側へ四歩分、ゆっくり下がった。四歩目の手前で止まる。止まったとき、床の影の四隅が、椅子のときと同じ重さで沈んだ。沈んだところへ、乾いた声が、はっきり四まで来た。


 ──いち、に、さん、し。


 声は、今度、僕と水城のあいだの空気の中心で鳴った。中心は、僕らの皮膚の“表”の高さにある。そこで止まる。止まった直後、扉のガラスのむこう側で、誰かの気配が、そっと立ち上がった。気配は、開かずの扉を叩かない。叩かないのに、四度のノックが、僕らの背の内側だけに響いた。背骨の浅いところを、紙の角で軽くつつかれたみたいに。


 「渡した」


 水城が、ほとんど唇の形だけで言った。たしかに、椅子に“座っていた”重さは消え、声は壁の□の辺りよりも、扉の足元の影の方で濃くなる。 “数える役”は、椅子でも机でもなく、今は扉の影へ座っている。影は、座面も背もたれもいらない。四隅さえあれば足りる。


 そのとき、廊下の壁掛け時計が、音のないまま、針だけ四のところで止まった。視線を逸らさずに、僕は時間を推し量る。胸の拍と、背の内側のノックの間隔と、スマートフォンの画面の黒が纏う熱の強さで。そろそろだ、と身体が先に知る。四時四十四分。四が重なって、四の上に四が乗る時刻。


 スマートフォンが震えた。件名は、一文字の「し」。僕は画面を伏せたまま、胸ポケットの中で通話ボタンに触れた。スピーカーからは、やはり無音が続く。無音の帯の底で、紙が擦れる音がほんの僅かに立つ。折り目の、浅い音。浅い音に、息がひとつ重なる。


 ──し ず の は の ぞ く


 録音はそこで切れた。切れた刹那、扉の影の四隅が、同時に小さく跳ね、すぐにまた沈む。沈みながら、影は四角をやや内へ縮めた。縮んだ分だけ、僕らとの距離が近くなる。近づいたことを、足首の冷えが教える。冷えは、不快ではない。視線に似ている。見られている場所だけが、温度を変える。


 僕は背中を固くするかわりに、両手の指を開いた。手の“表”は、面だ。面を示すと、面に面が集まる。集まった面は、角を呼ぶ。角は、四で止まってから動く。だから今は、まだ動かない。動かないうちに、僕たちは廊下を離れた。四歩を数えず、心の中で拍をずらしながら。


 階段を下りる途中、踊り場の窓から外を見た。曇天の下、キャンパスの芝生は浅い色で、ベンチの影は薄い。薄いはずなのに、四隅だけは濃い。遠くからでもわかる濃さだ。あれほど離れていても、四は“いる”。来ないでいて、ここにも、 “いる”。


 その夕刻、研究棟を出る前に、水城が言った。


 「先生、明日、留守電を逆再生しましょう」


 僕は頷いた。たぶん、そのために、ここまで“影”を整えてきたのだ。面へ移り、角を座らせ、四を渡す。次は、声の“向き”を反転させる番だ。反転は、振り返りに含まれる。掟は発動する。だが、こちらはもう、いくつかの四を別の場所へ“座らせ”てある。


 夜道を歩く。ショーウインドウのガラスは、面を立てて、こちらの“表”を欲しがる。近づかない。信号は赤から青へ、青から赤へと変わり、そのたび、足元の影の四隅が別の角度で濃くなる。濃くなるたび、胸の中の拍をひとつずらす。ずらして、合わせない。合わせないのが、こちらの手順だ。


 家に着くと、ポストにまた封筒が一通、入っていた。差出人は、細い筆致でただ一文字──「し」。中身は、短い透明のフィルム片が四枚。どれも角が鋭く、中央にごく小さな□。四枚は、ばらばらに見えて、同じ幅で切られている。机の上に並べると、隙間なく正方形を作った。四枚で、ひとつの面。四隅で、ひとつの影。


 僕はその正方形を、部屋の灯りを消してから、そっと封筒へ戻した。戻しながら、まぶたの裏で、乾いた声が四で止まるのを聞いた。


 ──いち、に、さん、し。

 そこで、止まった。


 四は、まだ、来ないでいる。だが、明日の“向き”は、もう決まっている。

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