神使の白兎

水底まどろみ

前編

 時は南北朝時代、足利直義と高師直が対立を起こしていた頃。

 越後国の農村に弥彦やひこという男がいた。

 弥彦は実直な男で、毎朝お天道様てんとさまが顔を出す頃に目を覚ましては、日が沈むまで黙々と働いていた。

 そんな弥彦にはお雪という、その名の通り肌が白く美しい女房がいた。

 穏やかで手先が器用な良妻だったが、なかなか子宝には恵まれず、夫婦の長年の悩みとなっていた。


 さらに不幸なことに、秋も終わりの気配を見せ始めたある日に、お雪が病にかかってしまった。

 病を追い払うと伝えられている薬草を探してみたり、旅の僧侶に祈祷きとうを依頼してみたりしたが、これといった成果は上がらない。

 とこせる時間が日に日に増えているというのに、心配させまいと弱々しく笑ってみせるお雪の姿を見て、弥彦は気が気ではなかった。

 せめて、食事だけは良い物を取らせなくてはならない。

 そう考えた弥彦は、体力をつけてもらうために兎肉を食べさせようと考え、くくり罠を近くの山にいくつか仕掛けることにした。


 罠を仕掛けた翌日、弥彦が山の中を歩いていると奇妙な声が聞こえた。


「おーい、誰か助けてくれ」


 子供のような高い声が、罠を設置したあたりから聞こえてくる。

 人が通るような場所には仕掛けなかったはずだが、と首をかしげながら駆け寄ってみると、そこに人影はなかった。

 代わりに罠にかかっていたのは、この辺りの野山ではまず見ることのない、真っ白で毛並の良い兎だった。


「ああ、そこの人。この縄を外してくれないか」


 弥彦の姿を見つけて安堵の表情を浮かべている兎は、面妖なことに人の言葉を巧みに操っている。

 妖怪の類いかと警戒しながら、弥彦は恐る恐る尋ねてみる。


「お前さん、いったい何者なんだ?」


 すると、兎は二本足で立ちあがり胸を張ってこう言った。


「私は神様の使いの者だ。名を白月はくげつと言う。この辺りの神社に寄せられた人々の願いや感謝の気持ちを、神様の元へ運んでいる最中だったのだ」


 さあ縄を解け、とふんぞり返る兎を前にして、弥彦は腕を組み悩み始めた。

 その様子を見て兎は腹を立てて地団駄を踏む。


「おい、何をしている。私が神使しんしだと信じていないのか?」

「いやあ、それもあるけども」


 弥彦は、妻が病気で寝込んでおり、兎肉で栄養をつけてもらうために罠を仕掛けていたと説明する。


「薬を探してみても、仏様にお祈りしてみても駄目だったんだ。もう、体力をつけてもらうしか方法が思いつかなくて」

「ううむ、なるほど。それは可哀想に。だが、私も大事な使命があるのでみすみす食われるわけにはいかないのだ」


 兎はしばらく唸っていたかと思うと、ポンと手を叩き明るい声で言った。


「では、こうしよう。私を解放してくれれば、お前の妻の病気のことを神様に掛け合ってみよう。お前は徳を積んでいそうだから、きっと神様も聞いてくれるだろう」


 本当に妻の病気をなんとかしてくれるなら、弥彦に文句はなかった。

 このまま神の使者を捕まえていては神罰が下るかもしれないという恐れもあったので、弥彦は兎の脚に絡まっていた縄を切ることにした。


「よし。必ず神様に伝えてやろう」


 それだけ言い残すと、兎は弥彦が瞬きする間に姿を消していた。


 翌朝、弥彦は家の戸を叩く音で目を覚ました。

 外はまだ闇が濃い様子だったが、戸の隙間からはかすかに光が漏れている。

 何者かといぶかしがりながら戸を開けてみると、膝頭ほどの背の高さの兎が十数匹、提灯を片手に直立して並んでいた。


「お前が弥彦だな」


 先頭に立つ、烏帽子えぼしを被った兎の問いかけに、驚きで声を失った弥彦はこくこくと頷く。

 その兎が後ろに並ぶ兎たちに目配せをすると、地面に風呂敷が敷かれ、その上に兎たちが何か丸くて白いものを積み上げていった。

 弥彦が呆気に取られていると、再び烏帽子を被った兎が口を開く。


「神薬を練り込んだ餅だ。毎日ひとつ、かゆに混ぜて奥方に食べさせるように」


 一方的に説明すると、兎たちは列をなして帰ってしまった。

 その去り際に、最後尾にいた一匹の兎がふとこちらを振り返る。

 その横顔はどこか笑っているように見えた。

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