お嬢さまの戯言

櫻野音

第一章 十橋麗子の戯言

第1話 キスは檸檬の味

 「ねえ、赤坂。キスってどうして檸檬の味なのかしら。」

 「お嬢さま、只今お勉強のお時間では?」


 とあるお屋敷のひとり娘──十橋 麗子は執事である赤坂に突拍子もないことを尋ねた。それはあまりにも突然で不自然なことだが、赤坂にとってはそれが麗子の通常運転なのだ。


 「赤坂は不思議に思わないわけ?檸檬よ?檸檬。あんなに酸っぱいものなのかしら?キスって。」

 「お嬢さまは私語を慎まれた方がよろしいのでは?」


 赤坂は麗子の戯言に辛辣に答える。巧みな回答の回避に麗子は腹をたて、赤坂をにらみつけるも効果はなし。


 「さ、今日の復習と明日の予習を終わらさなければ夜ご飯が遅くなってしまいますよ。」


 麗子は赤坂を目の前にして何も言えなくなってしまったため、しぶしぶ目の前の教科書を眺めた。


 「お嬢さま、ただ教科書を眺めるのではなく、こちらの問題を解いてください。」


 赤坂は若干呆れた声で厳しく、麗子に指導するが彼女も嫌々鉛筆を動かした。

 だが、全く問題文が頭に入らない。それ故、問題を解くことさえままならなかった。

 鉛筆を放り出した麗子は椅子にもたれかかってだらけた。お嬢様らしからぬだらけ具合だ。


 「飽きたわ。少し休憩してもいいでしょ?」

 「はあ、まだ十五分も経ってはいませんが。」

 「ゔっ……。ほ、ほら赤坂。人間って長くは集中力が続かない生き物なのよ?効率を上げるには休息が必要で──」

 「理想としては二十五分集中し、五分休むのが良いらしいですよ。お嬢さまはまだ十五しか集中なさってませんから、そうですね、あと十分頑張ってしましょう。」


 そう言い返されてしまって歯が立たない麗子は


 「十分だけよ。」


 とまた問題を解き始めた。


 麗子は問題を解く傍ら、彼女の教科書を読んでいる赤坂に目をやった。

 執事として閉じ込めておくにはもったいないぐらいの顔立ちの良さ。鼻筋が高くまっすぐ、眉毛はキリッと丁寧に整えられており、凛とした顔のつくりには目を光るものがある。そこらへんの女性なら一度は振り向き返り、惚れてしまっても仕方がないぐらいのイケメンだと麗子は思っている。顔はカッコいい。それは認める。しかし、態度はどうだ?飄々としてまったく読めないし、厳しくしごいてくるのだ。今回だって、十分頑張りましょうと言われても後でもう少し頑張れますよねと鬼畜なことを言ってくるに違いない。

 そんなことを考えているといつの間にか十分たってようで赤坂が休憩にとハーブティーを入れてくれた。


 「珍しいわね。約束を守るなんて。」

 「まったく、人聞きの悪いことをおっしゃいますね。私、お嬢さまとの約束を破ったことなど一度もご……」

 麗子の鋭い視線に気づいたのだろうか。約束を守らなかったことがないと言い切る前に止め、咳ばらいをする。

 「まあ、人間一度や二度の過ちぐらいございます。」

 「そうね、赤坂。こないだは小テストで百点取れたらケーキを奢ってくれるって言ってたのにいつまでも奢ってくれないわよね。」

 「あ……。」

 「それに、クリスマスの日!プレゼント交換するって約束すっぽかしたでしょ!」

 「そ、それってお嬢さまが何歳のころのお話でございますか⁉だいぶ、昔のことを引っ張ってきましたね。」


 赤坂は誤魔化すように


 「そろそろ、五分経ちますよ、お嬢さま。お時間です。」


 と手を叩いた。


 「はあ?全然休憩になってないわ!」


 と憤慨するが赤坂は聞く耳を持たず、


 「言い分は二十五分後に聞きます。さて、お勉強を始めてくださいませ。」


 と納得しておらず、唇を尖がらせる麗子を眺めていた。


 麗子と赤坂が出会ったのは、今から十年前。麗子が六歳で、赤坂が十歳のころだ。赤坂家は代々十橋家に仕えている使用人の家系で、赤坂も高校を卒業と同時に十橋家に仕えるようになった。幼いころからの教育の賜物で若いながらにも麗子の身の回りのお世話をするようになったのだ。


 麗子もまた、絶世の美女に匹敵するほどの美少女であり、さらさらと揺れる真っすぐな黒髪と顔立ちはまるで日本人形のように整っていた。美しすぎて手を出すことも恐れ多い、女神同然のような美しさである。

 そんな彼女は頭を押さえながら、スラスラと問題を解いていく。授業の復習なんぞ、麗子にとってはへでもない。授業中に完璧に内容を理解している彼女にとって復習なんてしなくても良いとさえ思っている。


 「赤坂。二十五分経ったでしょ?」

 「流石はお嬢さまです。自分の得になることには随分と嗅覚が敏感でいらっしゃる。」


 赤坂が入れてくれたハーブティーはいつも美味しいのだ。爽やかなハーブの香りとさっぱりとした味わいが癖になる。


 「それで話を戻すわ。」

 「いいのですか?言い分を申さなくて。」

 「休憩が短いと言って長くしてくれるんだったらそうしてるわ。でも、赤坂はそんなことしないでしょ。どうせ、言いくるめられるに決まっているのよ。」

 「随分と察しが良いことで。」


 赤坂が繁々と頷いていると麗子は頬杖をついて、


 「私、こないだ初めて恋愛ドラマってやつを見たのよ。……私だって、女子高校生だもの。流行りはチェックしておかないとでしょ?」

 「珍しいですね。お嬢さまが恋愛ものなんて。あんなの恥ずかしくて見れないとおっしゃっていたのに。」

 「わ、私だってもう高校生だもの。恋のひとつやふたつ……。」


 少し顔を赤らめながら口をもぞもぞさせるが、恥ずかしがっているのが傍から見ても分かる。それぐらいには麗子は恋愛に疎いのだ。


 「……それで、月曜の九時から放送してるあれを見たのよ。そしたら、ファーストキスをした主人公がキスを檸檬の味と言ったのよ⁉檸檬よ。檸檬‼どうやって、檸檬の味がするわけ?自分の口を噛んでも檸檬の味なんてしないのに!と思ったわけ。」


 やや興奮気味に舌先がよく回ることで軽快なリズムでドラマの感想を述べる麗子の言葉に赤坂は眉毛が動いた。


 「嚙んだのでございますか?自分の唇を。」

 「噛んじゃったわ。自分の唇を。」


 赤坂は少し驚きながら、麗子の唇を観察する。やはり執事たるものいつだってお嬢さまの健康には気を使わなければならないのだ。しかし、もう傷は塞がっているらしく、傷らしい傷は見当たらない。

 しかし、真っすぐに自分の唇を見られるなんて麗子にあまり経験がないことであろう。


 「な、何よ。キスでもしたくなったわけ?」

 「そんなわけないでしょ。脳内お花畑もいい加減にしてください。」


 とすぐざまにツッコミ、


 「はい、二十五分頑張ってください。次は予習ですね。」


 と該当ページを開き、次の授業の説明をするものの、麗子は一切頭には入っていないようで、向かい合って座ってるために頭が触れてしまいそうなほど近い二人の距離にドキマギしていた。麗子はサラリと流れる赤坂の髪をただ見つめていた。

 「お嬢様?聞いていますか?」

 「はっ?えっ⁉き、聞いてるわよ。」


 不意に顔を上げられ、目が合ってしまえば麗子は動揺など隠すことはできない。こうやって教えてもらうのはいつものことなのに今日は顔が近いと思ってしまうのは何故なのか、分からない。そう、いつも通りなのだ。だから、この至近距離のせいで赤坂の言葉が入ってこないなどバレたくなかったのだ。そのため、誤魔化すよう咄嗟に赤坂のため息が聞こえる前に口を挟んだ。


 「赤坂は、キスは檸檬の味だと思う?」

 「また、その話ですか。お嬢さま、今は予習に集中してください。」


 ため息をつきながら赤坂が麗子の方を見ようとするとふいっと目を逸らされる。


 「だって、頭から離れないのよ。しょうがないじゃない。」

 「お嬢さまは小学生ですか?」

 「だ、だって、知らないんだもの。気になるんだもの。だって、檸檬よ檸檬。気になるじゃない!」

 「さっきから檸檬檸檬って、そんなに檸檬が引っかかります?」

 「それはそうでしょ。人体から檸檬の味がしたら唐揚げに檸檬はいらなくなるのよ?」

 「その例えはどうかと思います。」

 「そうね、私そもそも唐揚げに檸檬かけない派だし。」


 その答えはいささかズレていると思ったが、赤坂は麗子の暴走を止めるべく、小さくため息をついて


 「キスが檸檬の味というのはものの例えでございましょう。恋は甘酸っぱいと申しますし、そこには檸檬という食べ物が適任だっただけでございます。」


 と彼なりの答えを提示した。これで麗子が納得するはず……と思っていた赤坂だったがその考えは甘かったようで


 「いいえ、そんな比喩表現だなんて認めたくないのよ。確かに主人公は友人からキスの感想をねだられたとき檸檬の味がしたと言ったのよ!つまりは……‼唇に檸檬ソースを仕込んでいたと考えるのが妥当だと思ったのだけれど、現実的に考えて檸檬の香りのリップだったと思うの。」

 「はあ、そうですね。それでいいと思いますよ。お嬢さまが考えるならそうなんでしょう。」


 そんな論理的にキスは檸檬の味と大真面目に考える馬鹿が何処にいると呆れ顔の赤坂は面倒くささを感じつつ、今度こそ勉強に集中してもらえると考えていた。

 しかし、彼女の暴走は止まらなかったようで今度はカバンをゴソゴソと漁り、リップを取り出した。


 「これって……。」

 「リップよ、檸檬の香りのリップ。これを赤坂が塗りなさい。そして、私に教えるのよ。檸檬の味がしたかどうかを!」


 赤坂は思惑した後、


 「私がリップをつけてしまいますと、ずっと檸檬の香りが漂い、キスで檸檬の味がするかは分からないのではないでしょうか。」


 と大真面目に返答した。


 「……そ、そうね。確かにそうだわ。……じゃあ、相手側に訊ねなさい。キスはどんな味だったかと。」

 「私、どなたとキスをすればよろしいんですか。」


 麗子は指先をちょんちょんとくっつけ、コソコソっと尋ねる。


 「か、彼女とか……いるでしょ?」

 「いないですよ。嫌味ですか?」

 「ぅえっ!い、いないの?赤坂だもの。いるかとてっきり……。」

 「はあ、執事という職はですね、彼女なんか出来ないんですよ。」


 赤坂は不機嫌そうに眉をひそめたまま、何も分かっていない麗子を痺れを切らしていた。

 

 「そもそも、あなた、キスとかは……。」

 「ノーコメントで。」

 「ないのね!ファーストキスもまだなのね!」


 意気揚々断定し、自分と同類だと喜んでいると、

 

 「そのお口塞いであげましょうか?」

 「え?」


 と伸ばしされた手は麗子の顎を掴み、上と向けた。

 麗子は目をぱちくりさせながらどんどん近づいてくる赤坂の瞳を見つめ続けた。からかいがすぎたのかもしれない。こんな展開を予想してなかった麗子は驚いて固まっているだけだった。反射的に目を瞑り、唇を突き出していると硬い、冷たくも温かくもない無機質な何かに触れた。それは檸檬の香りが漂い、唇に潤いが持ち込まれる。プルッとした唇になったのは、麗子が持ってきたリップのおかげだったのだ。

 赤坂は麗子の口にリップを塗った。


 「どうですか?お嬢さま。檸檬の味はしましたか?」


 ニマニマ顔で笑いをこらえて言う。麗子は怒って顔を真っ赤にしているのか、恥ずかしくなって真っ赤になったのか……きっと両者だろう。


 「ク、ビ、よ‼クビにしてやるわ!」


 と大層ご立腹にそっぽを向いた。


 密かに麗子が自分の唇を舐めると檸檬の酸っぱさが身に染み込んだ。


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