吊るされた女①

 マンションのベランダに立った神奈川県警刑事部捜査一課の刑事、森倫太郎もりりんたろうは、「何故、こんなところから――」と声を漏らした。

 森は四十過ぎ、広い額と虫のように跳ね上がった細い眉が頭の良さと意思の強さを思わせた。そして、薄い唇が彼の持つ酷薄な一面を暗示していた。歩く時は、後ろ手に手を組んで、小柄な体をきびきびと動かしながら、バッキンガム宮殿の衛兵のように足を上げて歩く。

「こんなところ?」と石川が尋ねた。

 相棒の石川肇いしかわはじめは三十代、長身で、小柄な森と並ぶと子供を連れて歩いているように見えてしまう。分厚い胸板に、えらの張った小さな顔が乗っており、頭脳派よりも肉体派の刑事を印象させた。

 森倫太郎に石川肇。刑事仲間から二人は文豪コンビと呼ばれている。文学好きの刑事が、森鴎外の本名が森林太郎で、石川啄木の本名が石川一であることを発見し、以来、そう呼ばれている。

 偶然にしては出来過ぎなコンビだった。

「何故、ベランダなんでしょうね~」と森が言う。

「ベランダだと変ですか?」

「変ですね~あなたなら、ベランダから首を吊りますか?」

「ウコンさん。僕は自殺なんてしませんよ」

 石川は森のことを「ウコンさん」と呼んでいる。ドラマに登場する名刑事、杉山右近に似ているからだ。「何故、ウコンなのか?」と聞かれた時、「ドラマに出て来る名刑事に似ているからですよ」と答えると、「私は名刑事などではありませんよ」と口では言っていたが、あだ名を気に入った様子だった。

 以来、ウコンさんだ。

「でも、まあ・・・」森の言う通りだ。あかりの様な若い娘が、人目を引くベランダから首を吊って自殺し、遺体を人々の好奇の眼に晒したなんて変だ。

 遺体はベランダの手摺にロープを結び付けて首にかけ、鉄格子を乗り越える形で、道路に向かって首を吊っていた。自殺したとなると、首にロープを巻いて、ベランダから飛び降りたことになる。確実に死ねるが、勇気が必要だ。首を吊るだけなら、部屋の中にも適当な場所があったはずだ。どこか不自然だ。

「殺し――ですかね?」と石川が聞くと、「まだ分かりません」と素っ気ない返事だった。

「おやおや。こんなところに――」と森が蹲る。

「何か見つけましたか?」

「ほら、ここ、黒くなっています」

「黒くなっていますね」

 森が顔を近づける。「煙草の灰ですね。ここで煙草を吸って足で踏み消したのでしょう」

「吸殻が残っていませんね」

「そうですね~」と森が部屋に戻る。

 暫く、部屋の中をうろうろと歩き回っていたが、「おやおや」と足を止めた。

「何かありましたか?」

「ほら、これライターです」とテーブルの下に落ちていた百円ライターを指さした。

「ガイシャは煙草を吸っていたのでしょう」

「どうでしょう」

「ベランダで煙草を吸っていた跡がありましたよ」

「肝心の煙草がありませんよ。灰皿もない」

「そうですか。ガイシャが煙草を吸ったのではないとしたら・・・」

 当然、犯人がベランダで煙草を吸って、足で踏み消したことになる。

「吸殻は持ち去ったか、或いはベランダから投げ捨てたのでしょうね」

 マンションの前は道路だ。ベランダから投げ捨ててしまえば、単なるゴミとなって、誰も怪しまない。吸殻は処理したが、ライターを落として行ったことに犯人は気がつかなかった。

 鑑識官の手により、あかりの遺体がベランダに引き上げられた。

 森は遺体に近づくと、あかりの首筋の索条痕を確認した。あかりの黒髪に隠れて見えなかったが、あかりの首には二筋の索条痕が見られた。一筋は顎から斜めに、もう一筋は首の周りをぐるりと水平についていた。

「絞殺ですね」と森が呟く。

 首を吊って自殺した場合、索条痕は斜めにつく。絞殺された場合は、首の周りに水平に索条痕がつくことが多い。あかりは誰かに縊り殺されたようだった。

 鑑識官が「絞殺と見て間違いないでしょう」と言った。

 検死の結果、蒲生あかりの死亡推定時刻は、遺体が発見された日の前日、四日の夜、八時から十時までの間と推定された。会社より帰宅したあかりは、ベランダに干してあった洗濯物を取り込もうとして、ガラス戸の鍵を開けてベランダに出た。そこでベランダに潜んでいた犯人に襲われ、縊り殺された――と見られた。

 殺害後、犯人は被害者の首にロープを巻き、遺体をベランダの手摺から吊り下げたのだ。ロープは犯人が持参して来たものである可能性が高く、入手経路が洗われたが、ホームセンターで売られている日用品であり、犯人特定の手がかりとはならなかった。

 犯人の侵入経路が問題となった。

 エントランスからマンションに入るには、鍵を使うか、マンションの住人に入り口のドアを開けてもらわなければならない。非常階段があるが、こちらも外から入ろうとすると、鉄製の扉がある。扉は中からは開けることができるが、外から開けるには鍵が必要だ。

 マンション周辺をぐるりと見回ると、非常階段の下に駐輪場があって、自転車のサドルの上に立つと、成人男子なら一階と二階の間にある踊り場に手が届くことが分かった。

 恐らく、犯人はここからマンションに侵入したのだ。

 あかりの部屋は五階建てマンションの最上階だ。屋上から降りた方が目立たないし、早い。

 非常階段の最上階には鉄柵が設けられていて、屋上に上がることができなくなっていた。犯人は鉄柵をよじ登り、壁にあった屋上の雨水排水のパイプに足を掛けて、屋上へと侵入したようだ。そして、屋上から最上階にあったあかりの部屋のベランダに侵入したと考えられた。

 鉄柵から排水パイプに足を掛けて屋上に登るのは、転落の危険性が高い命懸けの行動と言えた。

 犯人はあかりが帰宅するのをベランダの暗がりでじっと待っていたのだ。ロープを用意して来たことと合わせると、計画的な犯行と言えた。

 マンションから出るのは簡単だ。犯行後、犯人は悠々とマンションから逃走している。マンションに防犯カメラは設置されておらず、またマンションの住人で、事件当夜、マンションを出て行く不審な人物を目撃した人物も居なかった。

 遺体発見時、あかりの部屋のドアに鍵がかかっていたが、部屋のドアはホテルによくあるオートロック式で、部屋の中からはドアノブを回せば自動的に開錠され、ドアを閉めると自動的に鍵がかかる仕組みになっていた。

 部屋の鍵はあかりの部屋にあったバッグから、携帯電話と共に発見されている。

 やはり犯人はベランダから侵入したのだ。

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