第三章:水脈の予兆

第11話 香織の日記 - カウントダウン

四月十五日(日)天気:雨 【儀式まで、あと66日】


また、あの夢を見た。


冷たい水の中に、ゆっくりと沈んでいく夢。手足の感覚がなくなり、体の輪郭が水に溶けていく。息はできないはずなのに、苦しくない。むしろ、満たされている。まるで羊水の中に戻ったような、原初の安らぎ。水は私を拒まない。ただ優しく、どこまでも深く、受け入れてくれる。


朝、目覚めると枕がぐっしょりと濡れていた。寝汗ではない。ひやりとして、ぬめりのある、生臭い水の匂い。シーツにできた染みは、月明かりの下でぼんやりと青く光っていた。まるで、深海の燐光生物がそこに棲みついたかのように。


体がおかしい。


鏡を見ると、肌が以前より白く、透き通っている気がする。腕の内側には、見たことのない青い筋が血管のように浮かび上がっている。血じゃない。もっと冷たい何かが、この中を流れている。指先で触れると、そこだけが氷のように冷たい。


お姉ちゃんみたいになるのだろうか。あの、人形のような完璧な美しさに。でも、それは同時に人間じゃなくなることだ。心が、感情が、乾いていくことだ。お姉ちゃんの目は、時々ガラス玉のように見える。笑っていても、その奥は何も映していない。


怖い。


でも、心のどこかで、この変化を待っている自分もいる。水が、私を呼んでいる。夢の中の安らぎが、現実の私を誘惑する。沈んでいけば、楽になれるの?この恐怖も、悲しみも、すべて洗い流してくれるの?


この町は、今日も雨だった。


■県立高校図書室 - 運命の一冊


四月十六日、月曜日。放課後。


県立高校の図書室は、西日が本棚の間を縫って金色の光の帯を作り出していた。古書特有の、少し埃っぽいけれど懐かしい匂い。ページをめくる微かな音。司書の藤田先生は、いつものように貸出カウンターで居眠りをしている。顎が胸に落ち、眼鏡がずり落ちそうになっている。


香織は、いつもは文学コーナーで時間を過ごす。夏目漱石、太宰治、三島由紀夫。文字が作り出す世界に没頭している間だけは、家のことを忘れられた。しかし今日は、なぜか足が別の方向へ向かった。見えない糸に引かれるように、あるいは、微かな水音に導かれるように。


民俗学のコーナー。


普段は誰も立ち寄らない、図書室の最も奥まった場所。棚には埃が積もり、本の背表紙は日に焼けて色褪せている。その中の一冊が、香織の目に留まった。いや、その本だけが、まるで自ら光を放つように、香織を呼んでいた。


『水と時計に纏わる各地の伝承』


著者名はない。出版社も、地方の小さな印刷所。表紙には、水に沈んだ古時計の絵。時計の文字盤は歪み、針は止まっている。その周りを、髪の長い女性たちが取り囲んでいる。その女性たちの顔は皆、同じ顔をしていた。悲しげで、美しい、私の顔に似た――。


香織は、その本を手に取った。


ひんやりと冷たい。まるで、水に濡れているような感触。紙魚が這った跡すらない、不自然なほど綺麗な状態だった。


ページを開く。紙は黄ばみ、所々に染みがある。水の染み。涙の跡のようにも見える。


最初のページに、こんな一節があった。


『東国某所に伝わる奇譚。十八の齢に達せし巫女、愛する者を水に捧げ、永遠の美を得るという。この儀、江戸の末より密に行われ、明治の世に至るも絶えることなし。巫女は水と一体となり、人ならざる者へと変貌を遂げる。その美しさは、見る者を魅了し、破滅へと導く』


香織の手が震えた。


これは、まさに自分の家系のことではないか。


「その本、面白い?」


突然の声に、香織は心臓が止まるかと思うほど驚き、本を取り落としそうになった。振り返ると、同じクラスの田中翔太が立っていた。

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