第9話 新たな日常

 封印解除から三日が経った。

悠真の生活は、一変していた。

まず、寮の部屋が変わった。以前の相部屋から、監視付きの個室へ。

部屋の隅には小さなカメラが設置され、二十四時間監視される。プライバシーは最低限しか保証されない。

そして、授業の一部も制限された。

実技訓練は特別枠。他の生徒とは別に、結城教官の直接指導を受ける。

(まるで……檻の中にいるみたいだ)

朝、鏡の前に立つ。

左手首には、もう封印の環はない。

だが、右手首には矯筆環が輝いている。


「……行くか」


悠真は制服を整え、部屋を出た。


 朝の訓練場。

他の生徒たちが自由に筆を走らせる中、悠真は一人、離れた場所で練習していた。

結城教官が厳しい目で見守っている。


「朽木、『火』を書け」

「はい」


悠真は筆を取り、半紙に向かう。

右手首の矯筆環が、ひんやりと冷たい。

筆を走らせる。


「火」


文字が完成する。

だが——何も起きない。


「……っ」

「もう一度」


結城教官の声が飛ぶ。

悠真は再び筆を取る。

震えている。

封印が解けたのに、まだ震えている。

(落ち着け……落ち着くんだ……)

深呼吸をして、筆を走らせる。


「火」


今度は、文字からかすかな熱が生まれた。

だが、炎にはならない。


「……くそ」

「焦るな、朽木」


結城教官が近づく。


「封印が解けたからといって、すぐに力が使えるわけではない。リハビリが必要だ」

「でも……」

「矯筆環は、お前の筆を制限している。だが、それは安全のためだ」


結城教官は悠真の右手首を見る。


「基本字から始めろ。火、水、風、土。まずはそれらを完璧に書けるようになれ」

「……はい」


悠真は頷いたが、胸の奥に焦燥感が渦巻いていた。


 昼休み。

食堂で杉浦と藤間さんと合流する。


「よう、悠真!」


杉浦が手を振る。


「調子どう? 封印解けてから」

「……まあ、ぼちぼち」

「ぼちぼちって、お前らしくないな」


杉浦はトレイを置き、隣に座った。


「矯筆環、きついのか?」

「……ああ。思うように書けない」


藤間さんが心配そうに見る。


「大丈夫? 無理しないでね」

「ありがとう。でも、大丈夫」


三人で食事を取る。

周囲の視線が、相変わらず突き刺さる。


「封印解けたんだって」

「でも矯筆環つけてるらしいぞ」

「結局、危険なやつじゃん」


ひそひそ声が聞こえる。

杉浦が不機嫌そうに振り返る。


「うるせえな、お前ら」

「杉浦、やめろ」


悠真が制止する。


「気にすんな。どうせ、そのうち慣れる」


だが、杉浦の目には怒りが宿っていた。


 午後の座学。

書の歴史を学ぶ授業。

教官が淡々と語る。


「古代において、書は神との対話の手段だった。文字を記すことで、神の意志を受け取り、人々に伝えた」


悠真はノートを取りながら、その言葉に引っかかりを感じた。

神との対話——。

それは、言霊に通じるものではないのか?


「そして、言霊という概念が生まれた」


教官が続ける。


「言葉に力が宿る。声で現象を起こす。古代の人々はそう信じていた」

「だが、それは迷信だ」


教官は断言する。


「我々が扱うのは『書』だ。文字だ。言霊などという曖昧なものではない」


その言葉に、悠真は違和感を覚えた。

(でも……俺の中には、確かに何かがいる)

喉の奥に、かすかな違和感。

言葉になる前の、何か——。

授業が終わり、悠真は一人、校舎を歩いていた。

すると、廊下の奥から氷室先輩が現れた。


「朽木」

「先輩」


氷室先輩は真っ直ぐに悠真を見る。


「訓練の様子、見ていた」

「……はい」

「焦っているな」


図星を突かれ、悠真は黙り込む。


「焦るな」


氷室先輩は窓の外を見る。


「封印が解けたからといって、すぐに力が戻るわけではない。俺もそうだった」

「先輩も……?」

「ああ。俺も最初は、何も書けなかった」


氷室先輩は拳を握る。


「だが、諦めなかった。毎日、基本字を書き続けた。一ヶ月、二ヶ月……」

「そして、ある日——」


氷室先輩は悠真を見た。


「突然、書けるようになった」


その言葉に、悠真は希望を感じた。


「時間がかかる。だが、必ず書けるようになる」


氷室先輩は歩き出す。


「信じろ。自分の力を」


その背中を見送りながら、悠真は胸が熱くなるのを感じた。


 夜。

悠真は自室で、一人筆を走らせていた。

半紙には、何枚も「火」の文字。

だが、どれも力が宿っていない。


「……っ」


悠真は筆を置き、天井を見上げた。

(なんで……こんなに書けないんだ)

右手首の矯筆環が、重く感じる。

この器具が、自分の力を縛っている。

だが——それは必要なことだ。

制御できない力は、危険だ。

(でも……)

悠真は再び筆を取った。

諦めない。

氷室先輩が言ったように、いつか必ず書けるようになる。

そう信じて——。

その時、部屋のドアがノックされた。


「悠真、入るぞ」


杉浦の声だ。


「おう」


ドアが開き、杉浦が入ってくる。その後ろには、藤間さんもいた。


「監視カメラあるのに、大丈夫なのか?」

「ああ、許可もらった。『友人の訪問』ってことで」


杉浦はニカッと笑う。


「お前、一人で練習してるだろ? だから、俺たちも付き合うぜ」


藤間さんも頷く。


「私も、朽木君の力になりたい」


その言葉に、悠真は胸が詰まった。


「……ありがとう」


三人で、夜遅くまで練習した。

杉浦は「土」を、藤間さんは「水」を、悠真は「火」を。

それぞれが自分の課題に取り組む。

時々、杉浦が冗談を言って場を和ませる。

藤間さんが優しくアドバイスをくれる。

そして、悠真は——少しずつ、筆の感覚を取り戻していった。


 深夜。

二人が帰った後、悠真は再び筆を取った。

今度は、一人ではない。

仲間がいる。

支えてくれる人たちがいる。

(だから……俺は諦めない)

筆を走らせる。

「火」

文字が完成する。

そして——

ぽっ。

小さな炎が、文字の上に灯った。


「……っ!」


悠真は息を呑んだ。

小さい。本当に小さい。

マッチの火ほどの、ささやかな炎。

だが——確かに、力が宿った。

封印が解けてから、初めて。

悠真の目から、涙がこぼれた。


「……できた」


震える声で呟く。


「俺、書けた……」


小さな炎は、すぐに消えた。

だが、その温かさは、悠真の胸に残った。

窓の外では、星が輝いている。

遠く、でも確かにそこにある。

悠真は筆を握りしめた。

(これが、スタートだ)

(ここから、また始まる)

新たな日常。

制限された中での、小さな一歩。

だが——確かな一歩。

朽木悠真の、再出発の日だった。


【第9話 了】

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