第5話 封印の代償

 任務出発を翌日に控えた夜。

悠真は寮の自室で、机に向かっていた。

窓から月が覗き、机上の墨壺の影を長く伸ばしている。半紙が一枚、まだ真っ白なまま置かれていた。

筆を手に取る。

震えが始まる。

いつもと同じ——いや、いつもより激しい震え。

そして、左手首の封印の環が、じんじんと疼き始めた。


「……っ」


痛い。

封印が施されてから一週間以上が経つが、この痛みは日に日に強くなっている気がする。

悠真は袖をまくり、環を露わにした。

黒い輪が、皮膚の下で脈打っている。まるで生き物のように。

指先で触れると、熱を持っている。

(封印は、俺を守るためのはずなのに……)

逆に、削られているような感覚。

内側から何かに押し返され、骨の奥で軋む音が聞こえる気がした。

ふと、窓の外に視線を向けると——月が雲に隠れかけていた。

欠けていく月を見つめながら、悠真は考える。

(明日の任務……俺は、ただ見ているだけでいいのか?)

封印された身では、戦えない。

だが、何もできないまま終わるのは——悔しかった。


 その日の朝は、慌ただしく始まった。


「うわー! 遅刻する!」


隣の部屋から杉浦の叫び声。

ドタドタと廊下を走る音。そして——ドンッという鈍い音。


「いってええええ!」


悠真は部屋を出ると、廊下で転んでいる杉浦を見つけた。

制服は半分しか着ておらず、筆を口にくわえたまま、片方の靴だけ履いている。


「……何やってんだ」

「寝坊した! 任務前日だってのに!」

「今日は任務じゃないだろ。任務は明日だ」

「あ……そうだった」


杉浦はへたり込んだまま、天井を見上げた。


「いやー、緊張して早く目が覚めちゃってさ。で、『やばい遅刻だ!』って勘違いして」

「お前、本当に大丈夫か……?」

「大丈夫大丈夫! 俺、本番には強いタイプだから!」


その言葉に、悠真は思わず笑ってしまった。

朝食を食べながら、杉浦が言う。


「なあ、悠真。明日の任務、怖い?」

「……怖いっていうか、不安かな」

「俺も。でもさ、ちょっと楽しみでもあるんだよな」


杉浦はニカッと笑う。


「だって、本物の墨妖とか見られるかもしれないんだぜ? 教科書でしか見たことなかったやつを、実際に見られるんだ」

「……そうだな」

「お前も楽しみだろ?」


悠真は少し考えてから、頷いた。


「ああ。怖いけど……見てみたい」


二人の会話を聞いていた藤間さんが、微笑みながら言った。


「二人とも、前向きだね。私はちょっと怖いかな」

「藤間さんも行くんだっけ?」

「うん。でも、見学だけだから大丈夫だよね」


その言葉に、悠真は少しだけ胸が痛んだ。

見学だけ——それは安全だが、同時に無力でもある。


 午後、悠真は定期検査のために医務室へ呼ばれた。

白い壁、消毒液の匂い、静かに回る扇風機の音。

医務官は三十代くらいの女性で、優しげな顔立ちをしていた。名札には「桐生」と書かれている。


「朽木君、座って」


悠真は診察台に腰を下ろす。

桐生医務官は悠真の左手首を取り、封印の環を見つめた。


「……痛みは?」

「はい。日に日に強くなっている気がします」

「いつから?」

「封印されて三日目くらいから……最初は違和感だけだったんですけど」


桐生医務官は小さな筆のような器具を取り出し、環の周囲を軽くなぞった。

環の縁が淡く光る。

そして——皮膚の下に、墨色の筋が浮かび上がった。

まるで血管のように、環から腕へと伸びている。


「……これは」


桐生医務官の表情が曇る。


「本来、封印は力の流れを制限するだけ。こんなふうに広がることはないの」

「どういうことですか?」


桐生医務官は器具を置き、悠真の目を見た。


「朽木君の場合、内側からの圧が強すぎて、封印が押し返されているみたい」

「内側から……」

「簡単に言えば——封印が、少しずつ擦り減らされているの。朽木君の力に」


悠真は息を呑んだ。


「擦り減る……って、封印が壊れるってことですか?」

「そこまではいかないと思うけど……でも、このまま放置するのは危険ね」


桐生医務官は引き出しを開け、何かを取り出した。

銀色に輝く、輪状の器具。

表面には細密な墨線が刻まれており、光を受けて不規則に明滅している。


「これは矯筆環(きょうひつかん)。筆の動きを強制的に制御する道具よ」

「……これを使えば?」

「封印の負担を減らせる。筆の震えも抑えられるわ」


悠真の心臓が高鳴る。

震えを抑えられる——それは、まさに自分が求めていたものだ。

だが、桐生医務官の表情は晴れない。


「ただし、制約がある」

「制約……?」

「これを使うと、書けるのは基本字だけに限定される。火、水、風……本当に基本的な文字だけ」


桐生医務官は矯筆環を机に置いた。


「それに、長時間使い続けると手が硬直して、しばらく筆を握れなくなる。何より——」


言葉が途切れる。


「自由な線は、封じられる」


その言葉の重みに、悠真は黙り込んだ。

震えは抑えられる。だが、自分の字は失われる。


「前例はほとんどないケース。だから、慎重に判断してほしい」


桐生医務官は優しく言った。


「今すぐ決める必要はないわ。でも、封印の状態は注視していくから。何かあったらすぐに来て」

「……はい」


医務室を出る時、悠真は振り返った。

机の上に置かれた矯筆環が、鈍く光っている。

(安全のために、自分の字を失う……それは、正しい選択なのか?)


 廊下を歩いていると、壁にもたれて立っている人影があった。

氷室先輩だった。


「……封印の調子は?」

「聞いてたんですか」

「偶然通りかかっただけだ」


氷室先輩は真っ直ぐに悠真を見る。


「矯筆環の話、聞いたんだろう」

「……はい」

「使うな」


即座の答えに、悠真は驚いた。


「でも、これがあれば震えを——」

「封印は守りだ。だが、守りは時として刃になる」


氷室先輩は左手首の封印を指差す。


「お前の封印は、お前の力と戦っている。矯筆環を使えば、その戦いはさらに激しくなる」

「……」

「器具に頼れば頼るほど、お前自身の制御力は育たない」


氷室先輩は一歩近づく。


「喉を閉じろ」

「喉……?」

「言葉は漏れる。お前の筆は、音に釣られる」


またその言葉だ。

入学式の後にも言われた。だが、意味が分からない。


「俺には……分かりません」

「今は分からなくていい」


氷室先輩は視線を逸らし、窓の外を見た。


「明日の任務。お前は見学だが、注意しろ」

「何に……ですか?」

「お前の中にある、もう一つの力だ」


氷室先輩はそれだけ言って、立ち去った。

悠真は一人、廊下に残された。

喉に手を当てる。

そこに、何かがいる気がした。

言葉になる前の、形を持たない何か——。


 夜。

悠真は再び自室に戻り、窓際に立った。

月が雲から顔を出し、中庭を照らしている。

左手首の封印を見つめる。

黒い環は、相変わらず脈打っている。

(守り……刃……)

封印は自分を守るためのもの。

だが、同時に自分を蝕んでもいる。

矯筆環を使えば、震えは抑えられる。

だが、自分の字は失われる。

(俺は……どうすればいい?)

その時、ふと喉の奥に違和感を覚えた。

何かが、蠢いている。

言葉が——いや、言葉になる前の何かが、そこにいる。

悠真は思わず声に出した。


「……出てこい」


その瞬間、封印の環が強く脈打った。

ビリッと痺れが走る。


「っ……!」


慌てて口を閉じる。

喉の奥の違和感が、ゆっくりと引いていく。

(今の……何だ?)

氷室先輩の言葉が蘇る。

『喉を閉じろ。言葉は漏れる』

(俺の中には……何かがいるのか?)

窓の外で、風が木々を揺らしている。

遠くで鳥が一声鳴いて、また静寂が戻った。

悠真は拳を握りしめた。

(明日の任務……俺は何を見ることになるんだろう)

封印の環が、小さく光った。

まるで、何かを予感しているかのように。


 その夜、悠真は夢を見た。

真っ暗な空間。

足元には墨の海が広がっている。

そして、遠くから声が聞こえる。

『……震え……は……弱さ……じゃ……ない』

祖父の声だ。

『……お前……の……中に……眠る……』

声が途切れ途切れに聞こえる。

悠真は叫んだ。


「じいちゃん! 俺、どうすればいいんだ!」


だが、答えは返ってこない。

墨の海が波打ち始める。

その波の中から、何かが浮かび上がってくる。

黒い影。

人の形をしているが、顔は見えない。

影は口を開き——

『カム……タカ……ムス……ビ……』

言葉とも歌とも取れない、奇妙な音。

その瞬間、悠真の喉が熱くなった。


「うわあああっ!」


悠真は飛び起きた。

汗が全身を濡らしている。

息が荒い。心臓が激しく脈打っている。

そして——左手首の封印が、熱を持っていた。


「……夢……?」


窓の外はまだ暗い。

だが、東の空がわずかに白み始めている。

もうすぐ夜明けだ。

そして——任務の日だ。

悠真は深呼吸をして、ベッドから降りた。

夢の中で聞いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。

『カム……タカ……ムス……ビ……』

(あれは……何だったんだ?)

分からない。

だが、何か重要な意味がある気がした。

悠真は制服に着替え、荷物を確認する。

そして、左手首の封印に触れた。

(今日、俺は何を見るんだろう)

(そして……俺の中にあるものは、何なんだ?)

答えのないまま、悠真は部屋を出た。

廊下の窓から、朝日が差し込み始めている。

新しい一日が——そして、任務が始まる。


【第5話 了】

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