筆は震え、墨は囁く

@blackstroke

第1話 暴れる筆

 試験会場に重い静寂が降りていた。

朽木悠真は深呼吸を繰り返したが、心臓の鼓動は収まらなかった。掌はじっとりと汗ばみ、制服の裾を何度も握りしめる。周囲を見回せば、同じように緊張した面持ちの受験生たちが、五十人ほど畳の上に正座していた。

ここは筆京学園——書の力を極める者たちが集う、国内屈指の教育機関。

この国では、書道は単なる芸術ではない。正しい心と技で文字を記せば、その文字は「力」となる。炎を呼び、風を起こし、時には人の心さえ動かす。そうした「書士」を育成するのが、この学園の使命だった。

そして今日は、新入生選抜試験の最終関門——実技試験の日。

試験内容は至ってシンプル。一文字を半紙に揮毫する。ただそれだけ。だが、その一文字に力が宿るか否かで、合否が決まる。力が宿らない者は「白紙生」として補助要員の道を歩むか、あるいは不合格となる。

悠真は拳を握りしめた。手が震えている。いつものことだ。物心ついた時から、筆を持つたびに手は震えた。書道教室でも、学校の授業でも、周囲からは「下手くそ」「才能ない」と笑われ続けてきた。

(でも……俺は、諦めたくない)

祖父の言葉が耳の奥に蘇る。

『悠真、お前の震えは弱さじゃない。いつか分かる日が来る』

病床で掠れた声でそう言い残して、祖父は逝った。書士として名を馳せた祖父の言葉を、悠真は信じたかった。信じるしかなかった。


「おーい、君も新入生だろ?」


突然、明るい声が響いた。

振り返ると、人懐っこい笑顔の少年が手を振っている。茶髪を無造作に立て、少しずんぐりした体型。どこか憎めない雰囲気を纏っている。


「俺、杉浦っていうんだ! よろしく!」

「あ……朽木です」

「朽木か、いい名前だな! ねえ、君も準師範目指してるんだろ?」


準師範——書士の中でも、実戦級の力を持つ者に与えられる称号。卒業後は墨妖退治や結界維持など、社会を守る最前線で働くことになる。


「俺なんて親戚みんなから『期待の新星』って呼ばれちゃっててさ、プレッシャー半端ないのよ〜。でも君、すごい集中

してたね。さすがって感じ!」

杉浦の明るさに、悠真は思わず苦笑した。


「いや、俺は……そんな大層なもんじゃ……」

「謙遜すんなって! ここまで来たってことは、それだけで才能あるってことだぜ」


(才能……? 俺に?)

自嘲が喉の奥に引っかかったが、杉浦の屈託のない笑顔に、少しだけ緊張が解けた。


「それでは、実技試験を開始します」


前方の壇上から、試験官の声が響いた。初老の男性で、白髪混じりの髪を後ろで結んでいる。厳格そうな顔立ちだが、どこか疲れたような翳りがある。


「受験番号順に呼びます。呼ばれた者は前へ。用意された半紙に、自分が最も得意とする一文字を書きなさい。書の力が発現すれば合格、発現しなければ白紙生枠での再審査となります」

ざわめきが広がる。


「なお、今年は墨妖の出現が増加しており、書士の需要は例年以上に高い。諸君らの力に期待している」


墨妖——書の力が暴走し、意志を持った怪物と化したもの。放置すれば人を襲い、建物を破壊する。それを鎮めるのが書士の重要な任務の一つだ。

試験が始まった。


「受験番号1番、浅井!」


一人目の少年が立ち上がり、半紙の前に正座する。息を整え、筆を取る。一画、二画……「火」の文字が力強く紙面に現れた。

次の瞬間、墨が赤く光り、半紙の上に小さな炎が揺らめいた。


「おおっ!」


どよめきと拍手が起こる。


「合格! 浅井、よくやった」


試験官が頷く。少年は誇らしげに席へ戻った。

続いて二人目、三人目と呼ばれていく。

「風」と書いて涼やかな微風を起こす者。「水」と記して半紙に水滴を浮かべる者。一方で、文字を書き終えても何も起こらず、うつむいて戻る者もいた。

拍手が響くたび、悠真の胸は重くなった。

(みんな、すごい……俺なんかが、ここにいていいのか?)

手の震えが激しくなる。筆を握る指先に力が入らない。


「受験番号23番、杉浦!」

「おっしゃ! 行ってくるぜ!」


杉浦が立ち上がり、大股で前へ進む。その背中からは、迷いのかけらも感じられなかった。

半紙の前に座る杉浦。筆を構え——


「っしゃあ!」


気合いとともに筆を走らせる。「土」の一文字。文字が完成した瞬間、半紙の下から小さな土塊が盛り上がった。


「合格!」


歓声と拍手。杉浦はガッツポーズをしながら戻ってきた。


「やったぜ、悠真! お前も頑張れよ!」


満面の笑みで肩を叩かれる。悠真は頷いたが、声は出なかった。

そして——


「受験番号37番、朽木悠真」


名前を呼ばれた瞬間、世界の音が遠のいた。

立ち上がる。足が震えている。一歩、また一歩と前へ進む。背中に無数の視線が突き刺さり、息が浅くなる。

半紙の前に正座した。

試験官が静かに言う。


「朽木、準備ができたら始めなさい」


深呼吸。もう一度深呼吸。

手に筆を取る。その瞬間、震えが襲った。

穂先が小刻みに揺れる。墨がぽたりと滴る。

(落ち着け……落ち着くんだ……)

周囲のざわめきが聞こえる気がした。


「あいつ、手震えてるぞ」

「大丈夫なのか?」


雑音を振り払おうと目を閉じる。だが、震えは止まらない。

震えろと思って震えるものではない。震えるなと思っても、どうしても止まらない。

(この震えさえなければ……)

喉の奥で言葉がこぼれた。自分の耳にも届いたか分からないほど、かすかな呟き。

だが——

その瞬間、何かが変わった。

空気が、重くなった。

筆先が紙面に触れる。墨がぽたりと一滴落ちた。

そして——爆発した。


「——っ!?」


黒い奔流が、紙面から噴き出した。

悠真の視界が墨に染まる。息ができない。耳を劈く轟音。机が吹き飛び、畳が裂け、墨が天井まで這い上がる。


「うわああああ!」

「何だ、これは!」

「逃げろ!」


悲鳴が響く。受験生たちが慌てて後退する。だが墨の嵐は収まらない。意志を持った生き物のように、会場中を暴れ回る。

壁に墨が叩きつけられ、黒い染みが焼きつく。試験官たちが立ち上がり、慌てて筆を構える。


「結界を! 早く!」


一人の試験官が叫び、空中に文字を描く。「護」の文字が光り、透明な壁が立ち上がる。墨の奔流がぶつかり、砕け散る。黒い飛沫が雨のように降り注ぎ、畳を焦がした。

悠真は呆然と立ち尽くしていた。

筆が腕に吸いついて離れない。震えはますます激しくなり、体中から力が抜けていく。

(止まらない……止められない……!)


「朽木、筆を離せ! 力を抜くんだ!」


試験官の声が聞こえる。だが、手は言うことを聞かない。

三人の試験官が協力して結界を展開する。墨の暴走が徐々に封じ込められていく。やがて——

ぷつりと、糸が切れるように、筆が手から離れた。

墨の嵐が唐突に収まる。

会場には墨の染みと破壊の痕。そして、重い沈黙だけが残った。

悠真は膝をついていた。全身から力が抜け、立っていられなかった。

息が苦しい。胸が痛い。視界が滲む。

周囲から聞こえるのは、恐怖と非難の混じった囁き。


「何なんだ、あいつ……」

「暴走じゃないか」

「危険すぎる」


 主任試験官がゆっくりと歩み寄ってきた。その眉間には深い皺が刻まれ、唇がわずかに震えていた。


「朽木悠真……」


名を呼ぶ声は低く、苦渋に満ちている。

悠真は顔を上げられなかった。畳の墨染みだけを見つめる。


「君の書は……確かに力を持っている。だが、その力はあまりにも危険だ」


試験官は重いため息をついた。


「私としても、こんな処置は本意ではない。君にも才能はある。それは間違いない。だが、このままでは誰かが傷つく恐れがある」


沈黙。

悠真の心臓が嫌な予感とともに高鳴る。


「封印を施すしかない」


その言葉に、会場の空気が凍りついた。

封印——制御不能な書の力を抑え込む処置。だがそれは同時に、書士としての道を大きく制限されることを意味する。


「し、試験官……! それは……」


別の試験官が口を挟もうとしたが、主任試験官は手で制した。


「決定事項だ。彼の安全のためでもある。合格は認める。だが、入学と同時に封印処置を受けてもらう」


悠真は立ち尽くしたまま、胸の奥に冷たい石が落ちていくのを感じていた。

合格——その言葉は、喜びではなく、鎖の音として響いた。


 試験が再開された。

悠真は会場の隅に座らされ、ただ俯いていた。他の受験生たちは、彼を避けるように距離を取っている。

杉浦だけが、戻ってきて隣に座った。


「……悠真」

「……ごめん。迷惑かけた」

「何言ってんだよ。お前、すげえじゃん」

「……え?」


顔を上げると、杉浦は真剣な表情で続けた。


「あんな力、見たことねえよ。封印とか言ってるけど、それって裏を返せば、お前の力が規格外ってことだろ?」

「でも……制御できない力なんて……」

「今は、な。でもさ、制御できるようになったら最強じゃん」


杉浦は拳を突き出した。


「一緒に頑張ろうぜ、悠真。俺も、お前みたいにすげえ力欲しいもん」


その言葉に、悠真の胸に小さな温かさが灯った。

全てが終わった後、悠真は一人、試験会場を出た。

夕日が校舎を赤く染めている。桜並木の下を歩きながら、左手首を見つめる。

まだ何も施されていないが、もうすぐここに封印が刻まれる。

(封印……か)

祖父の言葉が、また蘇る。


『お前の震えは弱さじゃない』


(じいちゃん……俺、どうすればいいんだ……)

風が吹き、桜の花びらが舞う。

その花びらの一つが、悠真の手のひらに落ちた。薄桃色の、儚い花びら。

だが、散っても、また咲く。

悠真は拳を握りしめた。

(俺は……諦めない。封印されても、いつか必ず——)

筆京学園の門をくぐる時、悠真はまだ知らなかった。

自分の震える筆が、やがて世界を揺るがす力となることを。

そして、その力が誰かを救い、誰かを傷つけ、やがて大きな運命へと繋がっていくことを——。


【第1話 了】

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