第3話
だが何か今、張遼の側を離れて、何か彼が意識を取り戻すきっかけのようなものを見逃したら、一生後悔すると思い不安を感じるのだ。
実際は取り戻すきっかけのようなものが、何かすら分からない。
軍医だってこの部屋には常駐していて、一時たりとも張遼を一人にはしていないのに、何故自分はこんなに不安なのか、それが説明出来なかった。
楽進は無論のこと尊敬していたが、特に目を掛けられていたり親しいわけでは全くないのだ。
なのに何故こんなにあの一時のことが、心に引っかかっているのだろう。
賈詡が、自分と李典がいるより、張遼一人が戦線にいる方が味方にも敵にも大きな意味を持つのだと言っていた。
確かにそうだと思う。
張遼が手出しを無用だと言った時、頷いてしまった。
あのことが、後悔になっているのだろうか。
止めに入って例えそのことで張遼の怒りを買って自分が斬られても、彼を止めると賈詡は言っていた。
確かに賈詡ならば、迷い無くそうしただろうと思う。
ではこのまま張遼が死んだら――あの時賈詡が側にいれば張遼は死ななかったが――自分がいたから彼を死なせることになったのだろうか?
(そんなことで)
そんな違いで、張遼ほどの武人が死ぬ。
(賈詡殿ではなく私がいた、それだけの違いで……)
楽進はこの三日間ずっと張遼の側にいたので、部屋の中にいる軍医達も、もう何も言わなくなっていた。
彼らは消費した薬草などを調合し、再びの戦闘に備える準備に勤しんでいた。
張遼に関しては、もうやれることは無いのである。
主を失った張遼の部隊は賈詡の命により、
これを聞いた時も、楽進は納得出来なかった。
龐徳に恨みがあるわけでは無いが、張遼の部隊を直ぐさま率いることが出来るような男だと思っていなかったので、そんなことが出来るならば何故、命を投げ打って一騎討ちなどに出て来たのだと思う。
何か、張遼の命を懸けたものを簡単に汚されたような気がして、胸がムカついた。
戦場では、色々考えないことにしている。
色々考えなければ死ぬのが戦場であることは承知の上だが、楽進の場合考え込むことは今までの経験上、いい結果に繋がったことが一度も無い。
だから出陣してからは、己の迷いになるようなことは考えないようにしていた。
そのかわりこうして砦や駐屯地に戻った時は、出来るだけ多くの色々な人に声を掛け、言葉を交わし、それに対して考えるのを心がけている。
だが今回はどうしても、心が晴れない。
(嫌なんだ)
そう。
それだ。
ただひたすら嫌なのだ。
こういう結果で、戦わずして張遼が死ぬのも、
それを止められなかった自分の意志薄弱も。
残された張遼の部隊を、これからは
全部嫌だ。
戦場では一瞬の判断を見誤ると、こんなに多くの嫌なことが連鎖して重なって行くのか。
楽進は今まで、自分は戦場で戦って来たという自負は持っていたけれど、戦場の本当の残酷さや理不尽を知らずにやって来たのだと思った。
今回それを、思い知った。
しかし代償はあまりに大きすぎる。
自分の膝に肘を突き、顔を覆うようにして俯いていた楽進は、あの日から一度として動かなかった張遼の指先が微かに動いたのを全く見ていなかった。
張遼は目を覚まし、砦の天井を眺めた。
自分の屋敷でもなく、見覚えも無い。
意識が少し混乱している、と思いしばし考えた。
それから首だけ動かし
そうだ、涼州遠征に来たのだとそこから記憶が蘇って来た。
――戦況は。
「………………戦況は今、…………どうなっている……?」
張遼が一番最初に発した言葉はそれだった。
楽進が慌てて立ち上がり椅子を蹴倒したので、軍医達も気づき駆け寄って来る。
「おお! 張遼将軍! 気付かれましたか!」
「……記憶が少し混乱している……戦況はどうなっているか」
楽進は転げそうになりながら部屋を飛び出した。
上官の部屋に、許可も無く扉を蹴破るようにして入ったのは初めてのことだった。
暖炉の前で気持ちよくうたた寝していた賈詡は勿論、夜襲のような衝撃に叩き起こされて、険しい顔で振り返った。
「楽進……お前……俺の出陣命令に逆らった挙げ句、雪中行軍で戻って来て疲れ切った上官の安眠を妨げるとはいつからそんな反抗的な奴に……」
「賈詡殿、賈詡将軍、その、あれが……」
上手く言葉にならなかった。
「あれって何よ」
「張遼将軍が! 目覚められました!」
怪訝そうに賈詡が聞き返したので、ようやく楽進は叫ぶように答えた。
さすがの賈詡も慌てて立ち上がり、部屋を飛び出して行くと、残った楽進は一瞬呆然として立ち竦んだ。
暖炉の火を眺めて放心状態でいると、不意に涙が零れて来た。
無意識だったので、突然溢れて来た涙に驚いた。
楽進は、自分は暢気な人間だと思っているので、あまり深刻に何かを泣いたりしたことがない。何かを猛烈に嫌だと思ったり、怒ったり悲しかったり、そういうことがあまりないのだ。
子供の頃から滅多に泣かない子供だったので、この期に及んで溢れて来た大粒の涙に、自分が一番驚いた。
一体これが何の涙なのかも分からない。
こんなことは初めてのことだった。
だが涙を自覚すると止まらなくなり、楽進は膝から崩れるように、その場に蹲った。
「……良かった……」
遠くが何やら騒がしくなっているが、火の音だけが聞こえる静かな部屋で、一人しばらく泣いた。
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