第26話

 解毒剤の調合を終えたのは、ちょうどリミッター解除剤の副作用が出始めたころだった。魔力回路を流れる自分の魔力が、まるで自分のものと思えないぐらいコントロールが利かない。魔力が不快な程ざらついており、レイは中級結界を維持できなくなってきた。オリンが窓から戻ってきたと同時に結界を解いて、レイは震える指で鞄の中を探り、一つの瓶を取り出した。体が熱い。それは魔力回路のオーバーヒートなんかではなく、魔力のコンディションが著しく悪化したことによる、体温上昇だった。瓶の蓋を開けようとひねるが、どうにも力が入らない。息が上がり、立っているのもしんどくなったため、レイは近くの椅子に腰かけた。


「……マルキオン教授は?」


 レイがオリンに聞くと、オリンは半眼でレイを見降ろしながら答えた。


「まだ完全な解毒には至ってないけど、大丈夫だろうって、バネッサが言っていた。それよりこんなに魔法薬を作ってお前は大丈夫なのかって心配してた」


 オリンの言葉に、それもそうか、とレイは思った。なんせ、先日もオーバーヒート寸前までいった魔力回路に応急処置を施してもらったのだから。通常なら、同時調薬せずとも2つ目を作った時点で完全にオーバーヒートしていた。完全にオーバーヒートしたあとは、応急処置をしてもらっても一晩寝ないと確実に魔法は使えない。それを知っているからこそ、こんなに調薬したものが出てきたことに驚いたのだろう。


「正直……大丈夫ではない」


 レイが呟くように言うと、オリンは訳が分からないと言いたげに声を荒げた。


「大丈夫じゃないって、おま……むしろいつもより、平気そう……」


 オリンの言葉が尻すぼみしていく。レイの瞳を覗き込み始めた。


「お前、その目、どうした」


 その言葉に、レイはどう答えようか迷った。オリンの指摘は、リミッター解除剤の副作用の一つだった。瞳の色が静脈血に似た赤黒い色に変化する。別段視力に問題はないが、やはりおかしく思われるのだろう。


 不意に、オリンが耳についている小型の機械に手を乗せた。静かな研究室にオリンの耳から漏れ出た低い音声が幽かに響く。


「……クラウスさんが、お前に『使ったのか』って」


 レイは、先ほどの低い声はクラウスか、と思いながらぐったりと頷いた。オリンはそれを見てまた機械に話しかけた。


「頷いてます。……は? え? 来るんですか? 来て大丈夫なんです? ……緊急事態? 意味が分からな……」


 オリンが困惑している。その顔は、年相応のあどけなさを宿しており、クラウスと話す時はこんなに素直な反応を示すんだな、と思いながら苦笑した。


 レイはオリンに先ほどの瓶を差し出してみた。差し出した拍子に、瓶の中に入っている乾燥したエルヴァンローズの花びらが軽い音を立てながら揺れる。


「開けてくれ。もう、指に力が入らない」


 レイの言葉を聞いているのかいないのか、左耳についている小型の機械を手で押さえながら、右手でオリンは瓶を受け取った。一瞬だけ左手で瓶を押さえ、瓶の蓋をひねり、レイに瓶を戻した。他のことに気を取られていると、簡単なことなら無意識にやってくれるようだ。もともと悪い人間ではないのだろう。レイはオリンの邪魔をしないようにぽつりと礼を言った。戻された半開きの蓋の瓶を完璧に開いて、中から一枚花びらを取り出し、何とか力を込めて蓋をした。乾燥した花びらをそっと口に含み、舌の上で丸めて飲み下す。乾燥しているのに、花びらが触れた粘膜部分に清涼感が残る。


「……なんか、クラウスさんがお前がどこも行かないように見張ってろって……おいっ!」


 オリンの声がぼやけて聞こえる。オリンが近寄って必死の形相でこちらに何か話しかけているが、レイの意識は勝手に落ちていく。――魔法により一気に乾燥させたエルヴァンローズの花びらは、魔力に働きかけ、急激に意識を深く落とす作用を持つ。


 魔力のコンディションが悪く、魔法は使えなくなっているだろうが、それでも足は動く。レイはそれによって調律しようと彷徨い歩いてしまうのを防ぐために、自ら意識を落とす選択をした。意識が遠のく中、ようやく遠くの方から消防部隊のサイレンが近付いてくる音が聞こえたような気がした。






 エルヴァンローズの希少性は、栽培の困難さからくるものではない。利用しようと思う者が少ないために、あまり生産されない傾向にあるためだった。


 エルヴァンローズは、もとは東のザルハディア王国の端に位置する深い森で暮らしていたエルフがもたらしたものだ。魔法の扱いに長けたエルフだからこそ扱えたという話でもあるが、閉鎖的な暮らしをしていたエルフにとってみれば、エルヴァンローズは使い勝手の良いものだったに違いない。一つの花から加工次第で様々な効果を発揮し、魔力加工もしやすい。その特異性から、人間社会でも二百年ほど前では画期的な花とされていた。


 しかし、人はエルフと違い、飽くなき冒険心と社交性と繁殖力を持っていた。エルヴァンローズから生産できる成分は、代替が利く。わざわざエルヴァンローズを使う必要が無かったのだ。また、人間社会ではエルヴァンローズは『鎮静作用のあるもの』として知られているが、それは魔力に晒す前の状態のことを指す。調薬魔法でその成分を取り出す時も、手早く慎重に行わないとすぐに違う作用に変化する。作用が変化したエルヴァンローズは、必ずと言っていいほど、強い副作用を持つ。


 乾燥エルヴァンローズの主作用を即効性のある深い睡眠とするならば、副作用は『悪夢』だった。悪夢など、と侮る者がいるのなら、一度体験してみればいい。


 レイは、今見ているものが悪夢だということを、確かに理解していた。人を殺す夢を、レイは初めて見た。反吐が出るほど嫌いな人でもなく、自身が大切にしている人全員を、一人ひとり殺していく夢だった。全員が、酷い裏切りだと、レイを見る。虚ろな瞳が、レイを見る。何故だと、どうしてだと、血を吐きながら、レイに言う。しかしレイは言うのだ。そんなつもりはなかった、と。自身で手にかけておきながら、そうではないのだと、言い訳をするのだ。


 この悪夢を止めようとする理性を、何かが押さえつけている。体が勝手に動いて、一人また一人と殺していく。――夢の中でレイは、魔法を使ってはいなかった。感じたことのない人を殺める生々しい感触が手に残り、血の臭いを感じる。夢であることを理解しているため、その感覚は次の瞬間に失われるが、心に溜まって居座り続ける。


 これは、深層心理を掘り起こした恐怖だと、レイは理解した。レイが一番恐れていることが、夢となって表れている。魔法を使っていないのは、レイが弱いからだ。魔法を使っても、守ることも殺すこともできないことを、理解しているからだ。レイが大切な人を殺しているのは、レイの行動一つで大切な人を失うことは、即ち自身が手にかけることと同義であると、理解しているからだ。――レイが最後に手にかけたのは、美しい白金髪の男だった。首に手をかけられ苦しいはずなのに、藍色の瞳は息絶えるまで笑っている。まるで、レイの手で殺されることを喜んでいるかのように。


 レイの恐怖は、自身の行動一つでクラウスを失うことだった。そして、それすらクラウスが望んでいるということを、レイは一番恐れていた。


 レイが目を覚ました時には、クラウスの部屋のベッドの上だった。夢で最後にみた藍色の瞳が、心配そうに自分の目を覗き込んできている。レイは一瞬、まだ夢が続いているのかと思って息を止めて絶句していたが、クラウスがそっとレイの顔を撫でる感触で現実であることを理解した。


「レイ」


 優しい低音が鼓膜を震えさせ、レイはやっと脱力し息を吐いた。安堵と不安で胸がいっぱいだった。自分を撫でる手にそっと手を重ねて、数度呼吸してから、ハッと気が付く。


「マルキオン教授は!?」


 体を起き上がらせて、レイはクラウスに問う。クラウスはサイドテーブルに置いてあるピッチャーからグラスに水を注ぐと、レイに手渡しながら答えた。


「大丈夫だ、回復に向かっている」


 その一言で、レイは安堵した。安堵したものの、指が震えてグラスを受け取ることができなかった。脳裏に、白い粉だらけの教授室で横たわるマルキオン教授と、必死の形相で医療魔法を行使しているサルベルト教授の姿が焼き付いて離れない。得も言われぬ罪悪感が、先ほどの悪夢と相まって、レイの心を支配していた。


 目尻から、涙がこぼれる。泣いたのはいつぶりだろうか。レイは指先で何度も目を擦り、涙を拭った。――マルキオン教授を巻き込んでしまった。もう少しで死んでしまうところだった。その恐怖が、レイに襲い掛かっていた。


 クラウスが心配そうにこちらを見ている。レイは、早く涙を止めなければと、掌で目を覆った。


「すまない……リミッター解除剤の副作用で……魔力のコンディションが悪い。それで精神的に、弱っているだけだから……大丈夫だ」


 レイの言葉に、クラウスが小さくため息をついたのが分かった。程なくして、サイドテーブルにコトリとグラスが置かれる音が聞こえ、レイは肩を押されてベッドに沈み込んだ。目を覆っていた手を離すと、眼前にクラウスの顔があった。唇が重なり、そっと開かれた口の奥へ、口移しで水が流れ込んでくる。突然口内に現れた水の感触に、レイはびくりと体を震わせたが、渇いた体が求めていた水分を素直に受け入れた。


 名残惜しげにクラウスの唇が離れ、そのままレイに覆いかぶさるように、強く抱きしめてきた。


「我慢するな、レイ」


 耳元で囁く声に、レイの涙がまた零れ落ちる。――愛する人の体温を感じながら、子供の頃に戻ったように、レイは声を上げて泣いた。


 







「――心配顔で来た割には、ちゃっかり自分は調律して、僕のもとに来た、と」


 国立魔法大学病院の病室を訪ねて、「お加減はいかがですか」と聞いた瞬間、ベッドで横になったまま呆れたようにこちらを見てきたマルキオン教授にそう言われ、レイは視線を逸らして呻いた。その言葉に、一緒に見舞いに来たフォルトンも、ジト目でこちらを見てきているのが分かって余計に居場所がない。


 そんなことを言われても、魔力のコンディションが悪かったのだ。不可抗力だったと主張したい。それに、クラウスから「泣きながら抱かれるレイはもう見たくない」と言われてしまうような調律は、レイとしても本意ではなかった。


 今日の見舞いも、レイはクラウスにかなり渋られた。オリンより、昨日レイがリミッター解除剤を使用した後に「マルキオン教授に近付けさせるな」と言ったことはクラウスに伝わっており、魔力の相性がいいだろうということがバレてしまったせいだ。マルキオン教授との関係を疑われたレイは、仕方なく小さいながら共鳴音がすることは伝えた上で、本当に『そういう関係』であったことは一度もないこともきちんと話し、滔々とクラウスとの共鳴音の違いの説明をし、最後には、何度も調律をしたいのはお前だけだと言わされる恥ずかしい説得のもと、やっと見舞いに行くことを承諾されたのだ。


「……なんで、分かったんですか」

「そんなツヤッツヤな顔で来られて、分からない方がおかしいでしょ!」


 そう言われて、レイは恥ずかしくて顔を隠した。それを見ながら、マルキオン教授が呆れたようにため息をついて、再び口を開いた。


「ま、でもね。ありがとう。レイ君のおかげで助かったよ。まさかあの釘に結界を破壊されるとは思ってもみなかったけど」


 その一言に、レイの心に影が差した。


 昨日の爆破事件は、中断された初公判から、わずか3日後の出来事だった。昨日の夜に意識が戻ったマルキオン教授からの事情聴取によると、取り寄せていた論文資料の箱を開いた瞬間、中身が爆発したという。とっさに結界を張ったが、視界が白い粉で覆われたために、時間差で飛来した釘を避けきれなかったとのことだった。国立魔法大学内に届けられる荷物は、一度魔法でスキャンされる。――国立魔法大学内で爆発物を作り、荷物とすり替えられた。警察はそう見ているようだと、クラウスは言っていた。


 マルキオン教授が動きづらそうに体を起こした。掛布団で隠れていた腕がベッドの横にある棚に伸びる。その腕には、魔法薬の貼り薬が幾重にも巻かれていた。毒による後遺症を本人の魔力からのアプローチで治す場合、時間をかけて魔力に薬液に触れさせる必要がある。そういった場合に使われる貼り薬が、腕全体に巻かれているのを見て、レイは息をのんだ。おそらく、病衣の下はすべてこうなっているのだろう。


「やっぱりレイ君、僕と魔力の相性いいでしょ。あんなヤバイ毒薬が体に入った割には、この程度で済んだの、レイ君が解毒薬作ってくれたおかげだと思うよ。こういう勘って、当たるんだよねぇ、僕。あとは……そうだね、サルベルト教授のおかげかな。一番相性いいのは彼だし」


 レイに恋人がいることへの配慮か、マルキオン教授は取ってつけたようにサルベルト教授のことも言及した。


 話しながらマルキオン教授が引き出しから取り出したのは、レイの品質保持ケースだった。オリンがバネッサに「レイはこれを打った」と言って話し、それがマルキオン教授のもとにあるというのは、クラウスから伝わっていた。


 マルキオン教授が品質保持ケースを開いて、レイに中身を見せてきた。わかってはいたものの、そこには使用済のペン型注射器が入っていた。


「さて、レイ君。僕が何を言いたいか、わかるよね?」


 普段と同じ温厚な口調なのに、明らかに怒っていることが伝わってきて、レイは小さく「はい」と答えた。


「この薬について、説明してごらん」


 有無を言わさない雰囲気に、レイはそのまま閉口した。個室の病室にかかっている壁掛け時計の針が、かしゃんという音とともに、時を刻む音が響く。


 何も言わないレイを、フォルトンが心配そうに見ているのが分かる。マルキオン教授は品質保持ケースの蓋を閉じて棚の上に置くと、


「歯食いしばんな」


 普段では聞くことのないどすの効いた声で、ぽつりと呟いた。刹那、目にもとまらぬ速さでレイの頬にマルキオン教授の平手が炸裂した。その衝撃でレイがかけていた眼鏡がずれ、一部始終を見ていたフォルトンが「ひぇっ!」とレイの代わりに悲鳴を上げた。


「自分の魔力回路に幻覚をかけて使えるようにするなんて、馬鹿な発想するんじゃないッ! 末期患者の疼痛緩和からの着眼点だろうけど、自分の体を、壊れたどうでもいい玩具みたいに扱うな!」


 レイは打たれた頬の熱さを感じながら、ずれた眼鏡を直してマルキオン教授の言葉に耳を傾けた。昨日の夜に意識を取り戻したのに、この人はレイのことを心配して、何を摂取したのか調べたのだろう。辛い体を押して、解析魔法をかけた張本人にこそ、自分の体を大事にしろと言ってやりたかったが、レイは黙してマルキオン教授を見つめた。


 鋭い目つきのまま、マルキオン教授が続ける。


「……この薬のレシピは、誰かに言った?」

「祖母にはバレました」

「この注射器をつくった業者にも?」

「試作外注した業者はありますが、その時は発注する直前で末期患者に対する疼痛緩和用の自己注射として改変したレシピに差し替えました。俺としてはこの注射器の機工さえ確認できればよかったので」

「レシピを書き留めたりは?」

「業者に発注する前の構想段階のものを祖母に見られましたが、それはすでに焼却処分済です。他はありません」


 淡々と質問に答えると、マルキオン教授は一呼吸おいて湿ったようなため息をついた。


「……よろしい。墓までもっていきなさい」

「はい」

「絶対、もうバレるようなヘマしないでよ。使用済みの注射器も、今度からきちんと破棄するまで封印しておきなさい」

「……はい」


 マルキオン教授の言葉に、レイは俯いた。――もう使うな。そう言わないマルキオン教授の甘さに、レイは涙が出そうだった。絶対そう言いたかったはずなのに、言わないでくれたことに、レイはただ感謝した。


 マルキオン教授がフォルトンにも同様に真剣な眼差しで口を開く。


「フォルトン君。他言無用ね、いいね?」

「俺は何も聞いてません」

「よろしい」


 フォルトンがレイの肩に手を置いて、にっこりと笑って見せた。レイはフォルトンの顔とマルキオン教授の顔を交互に見て、また俯いた。自分が置かれている環境のあたたかさに、胸がじんと温かくなった。

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