1.2.3 サバイバー
ソウエン教授が去り、病室には再び静寂が戻ってきた。
リアは、まだシーツを頭まで被ったまま、世界を拒絶している。
だが、そのシーツの暗闇の中で、彼女の意識は、ベッドサイドに置かれた一冊の本――『マンハイム・フラグメンツ』――に、否応なく引き寄せられていた。
虚無の時間は、永遠に続くかのように思われた。
しかし、やがて。
シーツの隙間から、リアの震える手が、ゆっくりと伸びてきた。
その指先が、本の、ざらりとした青灰色の表紙に触れる。
彼女は、まるで重い石を持ち上げるかのように、その本をシーツの中に引きずり込んだ。
暗闇の中で、リアは手元のデータパッドの微かなライトをつけ、本の最初のページをめくった。
『ウェン・マンハイム博士は生前、自らの個人史を殆ど開示しなかったことで知られている……』
リアは、何も感じないまま、次のページをめくった。それは、彼の数少ないインタビュー記録の抜粋だった。
『――我々がお聞きしたいのは、あなたご自身の……、個人的な体験です』
リアの指が、止まった。
「個人史はない」はずの男の、「個人的な体験」。彼女は、シーツの中の暗闇で、息を殺して、その続きを読んだ。
『……空は、いつも死んだ虫の翅のような色をしていましたね』
虫の翅?
『時折、その粒子の帳の向こうを、巨大な影が横切っていくのが見えました。山が歩いているのかと錯覚するほどの、鉄のシルエットです。それが我々の兵器なのか、敵のそれなのか、塹壕の中にいたまだ少年だった私には、どうでもいいことでした』
リアの脳裏に、あの日の、禍々しい赤い光――《メカゴリラ爆裂王》のシルエットが、フラッシュバックする。千年前の「鉄の山」と、自分が対峙した「鉄の山」。二つのイメージが、彼女の中で重なった。
『……すぐ近くの塹壕で、男が叫びました。……叫びながら、彼は泥の縁を乗り越えて、外へ飛び出したのです。一瞬の後、男がいた空間が、音もなく白く発光しました。光が消えた時、男は蒸発し……』
『隣で、友人が呟きました。「気持ちはわかるがな」「気持ち? 狂人の?」と私は応えました。「逃げたいって気持ちさ。ここではないどこかに行きたいという気持ち」』
『「どこに逃げる?」「オーストラリア」「一昨日から戦場だぞ」「日本」「北極」「じゃあ南極か」「恋人の胸の中」「それがいい」』
『彼は、少しだけ笑いました。その表情が消えるのと、世界が再び白く塗りつぶされるのは、全くの同時でした。塹壕そのものが、ごっそりと抉り取られていました』
『……そして私だけが、生きていました』
リアの呼吸が、浅くなる。
私だけが、生きていました。
それは、師を失った、自分自身だった。
これは、千年前の大社会学者の難解な文章ではない。これは、自分と同じ体験をした、生存者の「告白」だった。
彼女は、憑かれたように最後の行を読んだ。マンハイムが、自分だけを狙うビーム兵器の光の中で聞いたという、「声」について書かれていた。
『自分に照準を合わせたまま静止している、巨大なビーム兵器を見ました。……その光の円の中心から、直接脳に響くような、声を、聞きました』
「何故、社会は存在しないのではなく、存在するのか?」
リアは、本を閉じた。
シーツから、ゆっくりと顔を出す。彼女の瞳から、「虚無」は消えていた。そこには、千年前の生存者と、千年前の兵器に対する、燃えるような「好奇心」――学術的な、そしてあまりにも個人的な探求の光が宿っていた。
センス・オブ・ワンダー。人を駆動させるのは、いつもそれだ。世界がどれだけ残酷で愚劣でも、それは人を駆動させてしまう。徹底的な残酷さと愚劣さの中においてさえ、何故これほどまでに残酷で愚劣なのかという問いを立ててしまう。それが人間。それがリア・アークライト。
リアは、ベッドから身を起こし、あの伍長が残していった優しさを、自らの意志で振り払った。
彼女はもう、迷わなかった。
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