第4話 憧れ
食堂は、いつものようにざわめきで満ちていた。長いテーブルの上に並んだ食器からは、湯気が立ちのぼり、甘い香りが漂っている。スプーンの音や笑い声が重なり合って、ここはいつだって祭りのようだった。
「ねえ、聞いた?」
ジョイが声を弾ませた。
「来週、“あの部屋”に入れる子がいるんだって!」
テーブルのあちこちで「えっ」「ほんと?」と声があがる。
“あの部屋”のことを子どもたちは詳しく知らない。ただ、そこに呼ばれた子は次の日から姿を消し、数日後に“立派な大人”として戻ってくる、とだけ聞かされていた。
「すごいなぁ、大人になれるなんて!」
プラドが目を輝かせる。
「きっと外の世界に行けるんだよ。僕たちもいつかは呼ばれるんだ」
「うん、先生たちも言ってたもんね。大人になったら、もっとたくさんの人に会えるって!」
イクスがスプーンを振り上げると、周りから笑い声が広がった。
レグも笑ってみせた。けれど、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
――もし大人になれるのがそんなに素敵なことなら、どうして戻ってきた子は、みんな前のことを話さなくなるのだろう。どうして、遠くを見ているような目をしているのだろう。
「ねえ、レグはどう思う?」
隣にいたクリオが身を乗り出した。
「やっぱり早く大人になりたい?」
レグはほんの一瞬、答えに迷った。
「……うん。なりたいよ」
声は、笑い声にかき消されていった。
だがその夜、ベッドに横たわったとき、心の奥に沈んだ思いが顔を出した。
――“あの部屋”に入ったら、自分の中の何かが消えてしまうのではないか。
そう思うと、胸がひどく重たくなった。
次の朝、施設の鐘が三度鳴った。いつもは一度しか鳴らない鐘が、早朝から三度鳴り響くとき――それは誰かが“大人になる日”だった。
「今日、呼ばれるのはアニなんだって!」
廊下を駆け抜ける声が響いた。子どもたちは次々に教室へ集まり、机を寄せて即席の広場をつくった。
やがて扉が開き、先生に付き添われたアニが現れた。
胸に小さな花飾りをつけ、いつもより少し背筋を伸ばしていた。
「すごい!」「やったね!」
歓声がわき起こる。皆が駆け寄って肩を叩き、手を握りしめた。アニは照れたように笑いながら、何度も「ありがとう」と言った。
「ねえ、大人になったらどんな感じ? どんな景色が見えるの?」
イクスが瞳を輝かせて尋ねると、アニは一瞬言葉に詰まり、ただ「きっとすごいよ」と答えた。
その曖昧な答えに誰も疑問を抱かない。皆は口々に「外の世界に行けるんだ」「立派になるんだ」と祝福を重ねた。拍手が波のように広がり、部屋は小さな祭りのようになった。
レグも手を叩いた。笑顔を浮かべながら、胸の奥で別の思いがふつふつと湧き上がる。
――アニは本当に嬉しいのだろうか。
花飾りの下で、小さく震えている手を、誰も気づかないのだろうか。
やがて先生が静かに告げた。
「時間です」
子どもたちは一斉に声を揃えた。
「いってらっしゃい!」
アニは振り返らずに歩き出した。
その背中を見送るレグの耳に、誰にも聞こえない小さなつぶやきが残った。
「……戻ってきたら、覚えていてくれるかな」
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