第8話

東京に戻った裕子は、まるで夢から覚めたような気分だった。


海辺の町の潮風の香りも、土の温かさも、正樹の優しい笑顔も、すべてが幻だったかのように、あっという間に日常が戻ってきた。通勤電車は相変わらず人で溢れ、会社のオフィスは冷房が効きすぎている。


「お帰り、裕子。元気そうでよかった!」


ロッカーから荷物を出していると、親友の遥が駆け寄ってきた。


「遥…ただいま」


「もう、いきなり音信不通になるんだから!でも、なんか…いい顔してるね」


遥はそう言って、裕子の顔をまじまじと見つめた。


「ちょっと痩せたけど、なんか透明感が増したっていうか…恋でもしてきた?」


遥の言葉に、裕子は胸がドキッとした。


「そんなわけないでしょ。ただ、ゆっくり休んだだけだよ」


裕子は笑ってごまかしたが、遥の勘は鋭かった。


仕事に戻ると、すぐに現実に引き戻された。溜まっていたタスク、上司からの修正指示、同僚からの嫌味。裕子の心は、再び少しずつ固くなっていくのを感じた。


休憩時間、裕子は会社の屋上に向かった。都会のど真ん中にいると、空がとても遠く感じられる。携帯を取り出し、写真フォルダを開いた。そこには、海の写真、畑の写真、そして、正樹が撮ってくれた、満面の笑みを浮かべた自分の写真があった。


その写真を見て、裕子の頬が緩む。


その時、スマホが震えた。遥からのメッセージだった。


『ねぇ、やっぱり気になるんだけど。あんた、まさか年下の男の子と…?』


裕子はメッセージを既読にするが、返信しなかった。正樹のことが、まだ誰にも話せない、自分だけの秘密でいてほしかった。


仕事が終わり、一人暮らしのアパートに帰宅する。ドアを開け、真っ先に目に入ったのは、リビングのテーブルに置かれた、おすそ分けでもらったトマトだった。


一つ、手に取ってみる。冷たいトマトを口に含むと、あの日の甘酸っぱさと、正樹の優しい笑顔が蘇ってきた。


都会で疲れても、頑張れる。


彼がくれた「居場所」を、心の中に大切にしまっておこう。裕子はそう思いながら、そっと目を閉じた。

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