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 『日鎮ヶ岳ひずめがたけ』。

 その場所の名が特定されてから、神宮文庫じんぐうぶんこの空気は、静かながらも確かな熱を帯びていた。

 水上と八坂やさかおうは、信濃国の古地図や文献を昼夜問わず調べ始め、和泉は旅に必要となりうる神器の手入れと分析に没頭ぼっとうしている。

 それは、決戦の前の、緊張と希望が入り混じった時間であった。


 志乃は、自分がただ守られ、待っているだけではいけない、と強く感じていた。

 これから向かうのは、人の手がほとんど入っていない信州の山奥だ。

 足手まといになるわけにはいかない。


 翌日の早朝、身を清めた志乃は、庭で一人、黙々と鍛錬たんれんをしていたいさおの前に進み出た。

 岩のような巨躯きょくが、朝日の中で静かにたたずんでいる。


「巌様」


 巌は、ゆっくりと志乃の方を向いた。

 その眼光は鋭いが、敵意はない。


「これから、私たちは危険な旅に出ます。私は、都の外のこと、特に山については何も知りません。自分の身を守るすべもありません。このままでは、皆様の足手まといになるばかりです。どうか、私にご教授きょうじゅいただけないでしょうか。最低限の身のこなしと、山中での心得こころえだけでも構いません」


 志乃は、深々と頭を下げた。

 巌はしばらく無言であったが、やがて、地響きのような低い声で、一言だけ言った。


「……良かろう」


 巌の稽古けいこは、志乃が想像していたような、力と力でぶつかり合うものではなかった。

 初日に教えられたのは、ただ、立つこと、そして歩くことであった。


「足の裏で、大地を掴むように立て」


 巌はそう言うと、巨大な体であるにも関わらず、まるで地面に根を張った大樹のように、微動だにしなくなった。

 志乃もそれにならう。

 初めはただ立っているだけだったが、意識を集中させると、自分の体が大地と繋がっているような、不思議な安定感を覚えた。


「気配を殺して歩け。木の葉が落ちるように、音を立てずに。山では、そなたは獲物にも、狩人にもなる。まずは、獲物にならぬ術を身につけることだ」


 彼の教えは、闘争とうそうの技術ではなく、自然と一体になるための作法さほうであった。

 志乃は、持ち前の集中力と、神器を鎮める時に使う、心を無にする感覚を応用おうようし、驚くべき速さで巌の教えを吸収していった。

 彼女の動きは、日を追うごとに洗練せんれんされ、数日も経つ頃には、庭の落ち葉の上を、ほとんど音を立てずに歩けるようになっていた。

 その様子を、水上や和泉は、驚きをもって遠巻きに眺めていた。


 稽古の合間を縫って、志乃は水上に願い出て、文机ふづくえと紙、そしてすずりと筆を借り受けた。

 父と岸馬に、手紙を書くためである。

 自分の身勝手で飛び出してきてしまったが、彼らがどれほど心配しているかを思うと、胸が痛んだ。


 筆を執ったものの、何から書くべきか、志乃はしばらく思い悩んだ。

 神器のこと、玄洋会のこと、そして自分の血脈のこと。

 あまりに現実離れしたことばかりで、どこまで伝えていいものか分からない。

 下手に事実を書けば、かえって父を無用な危険に晒すことにもなりかねない。


 しばらく考えた末、彼女は、当たり障りのない、しかし心のこもった言葉を選んで、筆を進めた。


『お父様、岸馬様へ。


 先日は、わがままを許してくださり、ありがとうございました。

 私は今、水上様のお計らいで、麻布にある、あるご隠居様のお屋敷に大変よくしていただいております。

 とても静かで、立派な書庫のある、学問に励むにはこれ以上ない場所です。

 こちらの方々は皆、親切で、博識はくしきで、毎日新しいことを学んでおります。


 今はまだ、お話しできないことばかりですが、私は元気でおりますので、どうぞご心配なさらないでください。

 やらねばならぬことが済みましたら、必ず古今堂へ帰ります。

 お父様も、どうかお体を大切に。

 岸馬様も、あまり無茶をなさいませんように。


 志乃』


 彼女は、日鎮ヶ岳へ向かうことには一切触れなかった。

 父に、これ以上の心配をかけたくなかったのだ。

 手紙を書き終えると、それを丁寧に折り畳み、封筒に入れた。

 水上にこれを託せば、岸馬を通じて、父の元へ届けてくれる手筈てはずになっている。


 ひとまずの役目を果たしたことで、志乃の心は少しだけ軽くなった。

 だが、それは、これから始まる本当の旅の、ほんの序章じょしょうに過ぎないことを、彼女はすでに理解していた。

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