20
彼女がそっと手を離すと、小箱から感じられた微かな
まるで、長きにわたる苦しみから解放され、安らかな眠りについたかのようだった。
志乃は、自分の内に眠る、まだ名前のない力の存在を、はっきりと自覚した。
そして、その力の
彼女は、驚きと尊敬の入り混じった目で見つめる和泉に小箱を返すと、書庫の主である
「八坂様」
翁は、ゆっくりと頷いた。
「あなたは私を『
その問いに、八坂翁は深く頷いた。
彼の目は、まるでその質問を待っていたかのように、穏やかな光を宿していた。
「うむ。
翁は、難しい顔で腕を組んだ。
「『鎮めの血脈』は、その力を
その言葉に、志乃の顔がわずかに曇る。
しかし、翁は
「じゃが、道が全くないわけではない。この書庫には、ただ文字を読むだけでは届かぬ真実を探るためのものが、いくつかある。水上、和泉、手伝ってもらおうか」
翁の言葉に、水上と和泉は心得たとばかりに動き出した。
彼らが向かったのは、書庫の北側、床の間に似た一角だった。
そこには、黒い
その表面は、まるで水面のように滑らかで、部屋の薄暗い光を鈍く反射している。
「これは『
志乃は、ごくりと喉を鳴らした。
和泉が、清められた白木の盆に載せた水と
「志乃さん。こちらで、お手を」
和泉に促されるまま、志乃は手を清め、懐紙で水気を拭った。
水上が、石の前にそっと座布団を置く。
志乃はその上に座り、目の前の巨大な黒い石と向き合った。
ひんやりとした、
「よいか、乙女よ」翁の声が、背後から静かに響いた。「心を無にし、ただ、そなたの母君のことだけを、強く、強く念じるのじゃ。母君の顔を、声を、温もりを……」
志乃は、ゆっくりと目を閉じた。
脳裏に、幼い頃にかすかに記憶している、母・千代の優しい笑顔が浮かんでくる。
いつも穏やかで、まるで春の陽だまりのような人だった。
父が言うには、自分のおっとりとした性格は、完全に母親譲りなのだという。
志乃は、そっと石の表面に右手を置いた。
触れた瞬間、氷のような冷たさが、腕を伝って全身に広がった。
しかし、それは不快な冷たさではない。
むしろ、彼女の心を静かに鎮めてくれるような、心地よい冷たさだった。
彼女は、ただひたすらに母を念じた。
母の
そこは、特別な力を持つ
その瞬間であった。
志乃の手の下で、黒曜石の表面に、まるで
光は、複雑な模様を描きながら、ゆっくりと文字の形を成していく。
それは、志乃が読んだこともない、古い古い文字であった。
文字は、次々と現れては消え、まるで流れる川のようだった。
そして、その光の流れの中に、志乃はいくつかの映像を見た。
それは、誰かの記憶の断片のようだった。
——
——戦国の世、鎧武者たちの
——そして、江戸の世。質素な着物を着た、母によく似た
いくつもの時代、いくつもの顔。
その全てが、自分に繋がる血の流れなのだと、志乃は理屈ではなく、魂で理解した。
やがて、無数の文字の中から、いくつかの言葉だけが、はっきりとその形を留めた。
『千代』
母の名であった。
そして、その隣には、さらに古めかしい書体で、こう記されていた。
『
その文字が浮かび上がったのを最後に、石の光はすうっと消え、元のただの黒い石板に戻った。
志乃が手を離すと、どっと疲労感が押し寄せてきた。
「……見事じゃ」
背後で、八坂翁の感嘆の声が漏れた。
水上と和泉も、信じられないものを見るような目で、志乃と石板を交互に見つめている。
「これほど鮮明に、血の記憶を映し出すとは……。志乃殿、そなたの血は、我々の想像を遥かに超える、純粋な『鎮めの血脈』じゃ。神邑の斎部氏…それは、神代の昔、
志乃は、自分の内に流れる血の、途方もない歴史の重さを感じていた。
自分は、ただの古物屋の娘ではない。
神代から続く、特別な役目を背負った一族の、
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