20

 彼女がそっと手を離すと、小箱から感じられた微かな残響ざんきょうは、完全に静まり返っていた。

 まるで、長きにわたる苦しみから解放され、安らかな眠りについたかのようだった。


 志乃は、自分の内に眠る、まだ名前のない力の存在を、はっきりと自覚した。

 そして、その力の根源こんげんを知らねばならないと強く感じた。

 彼女は、驚きと尊敬の入り混じった目で見つめる和泉に小箱を返すと、書庫の主である八坂やさかおうへと向き直った。


「八坂様」


 翁は、ゆっくりと頷いた。


「あなたは私を『しずめの乙女おとめ』と言い、そしてその力が『鎮めの血脈けつみゃく』から来ると仰いました。私の母が、その血を引いているのではないかと考えています。古文書の中に、私の母方の家系…『神邑かむら』の『斎部いんべ』という一族について、何か手がかりはございませんでしょうか」


 その問いに、八坂翁は深く頷いた。

 彼の目は、まるでその質問を待っていたかのように、穏やかな光を宿していた。


「うむ。賢明けんめいな問いじゃ、乙女よ。そなたのその力が、父君から受け継いだものではないことは、我々も察しておった。じゃが、その母方の血筋となりますと……」


 翁は、難しい顔で腕を組んだ。


「『鎮めの血脈』は、その力を悪用あくようされることを恐れ、歴史の節目ふしめ節目で、その名を捨て、姿を隠してきた。乱世らんせの中では、あまりに清い力は、かえって災いを招くからのう。大河に注ぐ無数の細流さいりゅうのように、その血は民の間に紛れ、今やその流れを遡って源流げんりゅうを突き止めることは、至難しなんわざじゃ」


 その言葉に、志乃の顔がわずかに曇る。

 しかし、翁はさとすように続けた。


「じゃが、道が全くないわけではない。この書庫には、ただ文字を読むだけでは届かぬ真実を探るためのものが、いくつかある。水上、和泉、手伝ってもらおうか」


 翁の言葉に、水上と和泉は心得たとばかりに動き出した。

 彼らが向かったのは、書庫の北側、床の間に似た一角だった。

 そこには、黒い漆塗うるしぬりの台座の上に、人の背丈ほどもある、磨き上げられた巨大な黒曜石こくようせきの板が、静かに安置あんちされていた。

 その表面は、まるで水面のように滑らかで、部屋の薄暗い光を鈍く反射している。


「これは『系譜石けいふせき』」と翁は言った。「血の記憶を映す、いにしえ神器じんぎの一つじゃ。この石に、血脈に連なる者が触れ、強くおのれを念じれば、石の表面に、その血の来歴が、かすかな光の文字となって浮かび上がることがあるという」


 志乃は、ごくりと喉を鳴らした。

 和泉が、清められた白木の盆に載せた水と懐紙かいしを差し出す。


「志乃さん。こちらで、お手を」


 和泉に促されるまま、志乃は手を清め、懐紙で水気を拭った。

 水上が、石の前にそっと座布団を置く。

 志乃はその上に座り、目の前の巨大な黒い石と向き合った。

 ひんやりとした、おごそかな空気が肌を撫でる。


「よいか、乙女よ」翁の声が、背後から静かに響いた。「心を無にし、ただ、そなたの母君のことだけを、強く、強く念じるのじゃ。母君の顔を、声を、温もりを……」


 志乃は、ゆっくりと目を閉じた。

 脳裏に、幼い頃にかすかに記憶している、母・千代の優しい笑顔が浮かんでくる。

 いつも穏やかで、まるで春の陽だまりのような人だった。

 父が言うには、自分のおっとりとした性格は、完全に母親譲りなのだという。


 志乃は、そっと石の表面に右手を置いた。

 触れた瞬間、氷のような冷たさが、腕を伝って全身に広がった。

 しかし、それは不快な冷たさではない。

 むしろ、彼女の心を静かに鎮めてくれるような、心地よい冷たさだった。


 彼女は、ただひたすらに母を念じた。

 母の故郷こきょうは、信州の山奥にある『神邑かむら』という隠れ郷だと、父は言った。

 そこは、特別な力を持つ巫女みこの一族が暮らす村なのだと……。


 その瞬間であった。

 志乃の手の下で、黒曜石の表面に、まるでしもが降りるかのように、淡い銀色の光が走り始めた。

 光は、複雑な模様を描きながら、ゆっくりと文字の形を成していく。

 それは、志乃が読んだこともない、古い古い文字であった。


 文字は、次々と現れては消え、まるで流れる川のようだった。

 そして、その光の流れの中に、志乃はいくつかの映像を見た。

 それは、誰かの記憶の断片のようだった。


 ——十二単じゅうにひとえを纏った、平安の世の姫君。彼女は、月の光が差す川辺で、何かを祈るように、水面に手を浸している。


 ——戦国の世、鎧武者たちのときの声が響く中、白装束の一人の巫女が、山頂のやしろで、何か光る玉を天に掲げている。


 ——そして、江戸の世。質素な着物を着た、母によく似た面差おもざしの少女が、村の子供たちに囲まれ、楽しそうに笑っている。


 いくつもの時代、いくつもの顔。

 その全てが、自分に繋がる血の流れなのだと、志乃は理屈ではなく、魂で理解した。

 やがて、無数の文字の中から、いくつかの言葉だけが、はっきりとその形を留めた。


 『千代』


 母の名であった。

 そして、その隣には、さらに古めかしい書体で、こう記されていた。


 『神邑斎部かむらのいんべ


 その文字が浮かび上がったのを最後に、石の光はすうっと消え、元のただの黒い石板に戻った。

 志乃が手を離すと、どっと疲労感が押し寄せてきた。


「……見事じゃ」


 背後で、八坂翁の感嘆の声が漏れた。

 水上と和泉も、信じられないものを見るような目で、志乃と石板を交互に見つめている。


「これほど鮮明に、血の記憶を映し出すとは……。志乃殿、そなたの血は、我々の想像を遥かに超える、純粋な『鎮めの血脈』じゃ。神邑の斎部氏…それは、神代の昔、祭祀さいしつかさどったとされる、伝説の一族の名。まさか、その血が今に続いておったとは……」


 志乃は、自分の内に流れる血の、途方もない歴史の重さを感じていた。

 自分は、ただの古物屋の娘ではない。

 神代から続く、特別な役目を背負った一族の、末裔まつえいなのだ。

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