第4話 氷の村の門番たち
両脇の氷壁が、軋むようにして開いた。
その隙間から現れたのは、二体の大柄な鬼――どちらも、身の丈を優に超える巨躯を持ち、氷の如き眼光でこちらを睨み据えていた。
「ここは、人間が踏み入る場所ではない。直ちに去れ」
鋭く放たれた声に、陽葵が身を竦ませる。
だが奏多は、わずかに手を上げ、落ち着いた声で応じた。
「……待ってくれ。僕たちは戦いに来たわけじゃない。この村の鬼……彼女を助けたんだ」
そう言って、背中の鬼――ミナの存在を示すと、二体の鬼の目が微かに揺れた。
冷たかった空気に、一瞬だけ、温度が生まれる。
「……その女……」
見張りの鬼が、無言で村の奥へと駆けていく。
ほどなくして現れたのは、やや年かさの女鬼だった。
彼女は奏多の背をのぞき込み、次の瞬間、瞳を大きく見開いた。
「……ミナ……! 確かにこの村の者だ。半年ほど前から行方が知れず……!」
震える手をそっとかざすと、淡い氷色の霧がミナの身体を包み始める。
それは、この地獄に生きる鬼たちが扱う“魂を癒す術”。
傷にではなく、魂そのものに触れる――まさに命への直接介入だった。
やがてミナのまぶたが、ゆっくりと開かれる。
「……ぅ……」
その瞬間、陽葵はすぐ顔を近づけ、泣きそうな笑顔で囁いた。
「良かった……! 目が覚めた……!」
だが、ミナの瞳は、陽葵を見つめてもなお戸惑っていた。
次いで奏多の顔を見たとき、その困惑はさらに深まり、やがて震える唇から、かすれた声が零れる。
「……人間に……助けられた……? 私が……?」
長く地獄を歩いてきた魂にとって、それはあまりに異質だった。
自分たちを忌み、恐れ、あるいは殺してきた存在――人間。
その手に、自分が命を繋がれたなど、信じがたかった。
彼女は目を伏せ、しばし沈黙した後、わずかに微笑んだ。
「……皮肉ね……助けられて、悔しいなんて……でも……ありがとう……」
その声には、戸惑いと……ほんの僅かだが、確かな感謝が込められていた。
見張りの鬼が静かに頷き、手の中の小さな物を差し出してくる。
「……我ら鬼は、誇りを重んじる種族だ。
借りは、借りたままにはしない。これは、その礼だ」
それは――氷でできた首飾りだった。
蒼く透き通った結晶がゆらりと揺れ、中心にはかすかな光が脈を打っていた。
「これは、命を助けられた者が、その恩を忘れぬために贈る証。
我らが誇りと、感謝のしるしだ」
奏多はその意味を咀嚼しながら、静かにそれを受け取った。
(……敵だと、決めつけていたのは僕の方だったのかもしれない)
手のひらに乗った氷の結晶は、冷たいはずなのに、かすかに温もりを感じる。それは、地獄に堕ちてから初めて触れる、本物の信頼の重みだった。
陽葵がそっと手を伸ばし、首飾りを手に取る。
その光を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……なんか、あったかい……この光、誰かの気持ちがちゃんと、届いてるみたい……」
そう言って、彼女はそっと首飾りを胸元にかけた。
鬼たちはそれ以上は語らず、仲間とともにミナを村の奥へと運んでいく。
そして――
「人間のお兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう!」
先ほどの子鬼が振り返り、無邪気な笑顔で手を振った。
その小さな背中が、氷の集落の奥へと消えていく。
奏多と陽葵は、まだ身体に触れる冷たい風の中で、
胸元に灯る光のぬくもりを感じながら、無言でその場をあとにした。
――その頃、朔は。
「――くっ、止まれ……!」
叫びながら、朔は凍てついた絶壁を落下していた。
凍結した岩肌が迫り、吹き荒ぶ風が耳を裂く。
このままでは、ただでは済まない。
朔でさえ、直感的に死の危機を感じていた。
「うぉぉぉぉ……!」
両手に現した魂の剣を、勢いのまま氷壁に突き立てる。
氷を削りながら滑り落ち、なんとか減速を試みるが
止まらない。
視界の端に、地面が迫る。
終わる――そう覚悟した、その瞬間。
「……っ!?」
ドスンッ!!
朔の身体は、何かに激突し、予想以上に柔らかい衝撃が全身を包んだ。
だが、そこから聞こえたのは――低く、地を揺らすような唸り声。
「グルゥゥゥゥゥ……ガァァ……グゥア……」
まるで、怒りと眠気を混ぜたような、濁った咆哮。
地の底から響くような、獣とも鬼ともつかぬ重低音が、周囲の氷を震わせる。
「……な、んだ……?」
衝撃は緩和された。命も……つながった。
だが――
ゆっくりと、朔の下からそれは立ち上がる。
まるで犬。いや、狼。
――だが、その頭は。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
三つの禍々しい頭が、鋭い牙と血のように紅い目を光らせていた。
「……三つ首……ケルベロス……!」
氷冷地獄の番犬――
異形の
その咆哮が、地獄の底を震わせる。
「――ッ!」
朔は片膝をつきながら、立ち上がる。
目の前にそびえ立つ“地獄の番犬”を真正面から睨み返し――
口元だけで、呟いた。
「……一難去って……また一難、か」
その瞳に宿るのは、諦めでも恐怖でもない。
ただ、戦う者の目――氷冷の地獄で、再び命を賭ける覚悟だった。
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