第11話 紅い翼

 ……もう、後戻りは出来ない。

 セラは祈るように、手にした革の鞭を振りかぶった。


 そして、一瞬の躊躇の後、エリーゼの白い背中に、それを振り下ろした。


 パァアン!


 雷鳴のような乾いた音が、地下室に鳴り響く。


「ッッッ─────!!!」


 声にならない絶叫が、喉の奥で押し殺された。想像を絶する、肉を焼くような激痛。エリーゼの体が大きく跳ね、全身の筋肉が硬直する。


 その白い肌には、早くも一本の鮮やかな紅い痕が、無慈悲に刻まれていた。


 セラは、心中で祈りながら、二度、三度と鞭を振り下ろす。


(あぁ、、あぁ、、主よ……! どうか、どうか、彼女をお救いください……!)


 もはや、自分が何を祈っているのかも分からない。


 エリーゼの身を苛む絶望から救いたい。この恐ろしい儀式を、一刻も早く終えたい。いっそ、彼女が耐えきれずに、あの右手を挙げてくれないだろうか。


 しかし、エリーゼの右手は、決して上がらなかった。彼女はただ、歯が砕けんばかりに麻布を食いしばり、その小さな体で、規定の十回の鞭を全て受け止めた。


 十回目の鞭が打ち付けられ、セラの腕が力なく落ちた、その瞬間。 エリーゼは、これまでに感じたことのない、驚くべき感覚に包まれていた。


 鈍麻していたはずの五感が、今までにないほど鮮やかに、鋭敏に、蘇っていたのだ。


 背中に走る、身を焦がすような熱と痛み。 薄暗い地下室の壁の染み、揺れる蝋燭の微かな陰影まではっきりと捉える視界。 振るわれていた鞭の革の匂い、石と、かびと、そしてセラの纏う石鹸のかすかな匂い。 口に咥えていた麻布は、唾液と混じり、ひどく黴臭い味がした。


 その全てが、エリーゼがもう何年も前に失って久しい、『生』の実感、そのものだった。 痛みの中にこそ、彼女の世界は、鮮やかな色彩と手触りを取り戻したのだ。


 しかし、エリーゼの白い背中は、正視に耐えない程に傷ついていた。


 十条の鞭痕は赤く腫れ上がり、皮膚は裂け、肉が覗き、血が滴っている。その痛々しい光景を前に、セラは震える手で、用意していた真っ白な礼拝布をそっとその背中にかけた。


 清浄な純白の布は、エリーゼの血を吸い、たちまち赤く、まだらに滲んでいく。


 セラは、儀式の最後の手順を続ける。涙でかすむ声で、主への祈りを捧げる。それは、エリーゼの魂の救済を願う祈りであり、自らの罪の赦しを乞う祈りでもあった。


 やがて出血が収まった頃、セラはゆっくりとその布を剥がした。そこに現れたのは、もう消すことのできない、生々しい鞭の痕跡。



 それは、彼女の背に生えた、おぞましくも美しい、紅い翼のようだった。



 全ての手順を終え、セラは床にうずくまるエリーゼのそばに寄り添い、そっとその手を握った。何か声をかけたい。しかし、どんな言葉も、この壮絶な儀式の後では空々しく響くように思えた。言葉が見つからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


 沈黙を破ったのは、エリーゼの方だった。


「……お導きくださり、ありがとうございました、セラさん」


 その声は、苦痛に喘ぎながらも、不思議なほどの安らぎと、感謝に満ちていた。


 その後、セラは傷口に軟膏を丁寧に塗り込み、痛む体に配慮しながら、服を着るのを手伝った。そして、エリーゼを教会の門まで、静かに見送った。別れの時が来ても、セラはまだ、かけるべき言葉を見つけられずにいた。


「……もし、傷が膿むようなことがあれば、すぐに知らせてください」


 結局、口から出たのは、そんな事務的な言葉だけだった。


 しかし、エリーゼは違った。彼女は、その瞳に涙を滲ませながら、不意にセラを強く、強く抱きしめた。


「貴女のお陰で、わたくしは救われました。今日この日のご恩は、一生、決して忘れません」


 その言葉と腕の力強さは、彼女の救済が本物であることを物語っていた。


 エリーゼが去った後、セラは一人、門の前に立ち尽くす。夕闇が、彼女の影を長く伸ばしていた。


 ……その後、二人が会うことは、二度となかった。


 セラはその後、何度も自身に問い続けた。 あの行いは、本当にエリーゼを救ったのだろうか。 それとも、ただ、友を癒えぬほどに傷つけただけの、罪深い行いだったのだろうか。


 その答えは、最後まで、彼女には分からなかった。

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