第3話 語らい

 あの日の後、エリーゼはセラに会うために、何度もあの教会へ足を運んだ。表向きは「寄付」という、貴族の令嬢らしい口実を携えて。しかしその実、彼女の心はただ一人、あのシスターに会うことだけを求めていた。


 教会を訪れると、セラはまるで彼女が来ることを知っていたかのように、穏やかな微笑みで迎えた。


「お待ちしておりました、エリーゼ様」


 その声には、人を安堵させる不思議な響きがあった。


 セラは、教会に併設された小さな中庭へといざなった。そこは壁に囲まれた静かな空間で、中央には苔むした石の噴水があり、ささやかなハーブが風に揺れている。王都の喧騒が嘘のような、穏やかな場所だった。

 セラが淹れたハーブティーの湯気が、午後の光に白く立ち上る。


「……粗末なものですが。ここのカモミールは、心を落ち着かせてくれるのです」


 そう言って差し出されたカップから、ふわりと柔らかな香りがした。エリーゼは驚く。それは、飲食物からは何年も感じたことのなかった、確かな安らぎだった。


 セラの前で、エリーゼはぽつり、ぽつりと語り始めた。初めは、屋敷での息苦しさ。愛のない両親のこと。自分がいかに「道具」として扱われているか。それは、誰にも言えなかった心の叫びだった。


 セラはただ黙って、相槌を打ちながら聞いている。その青い瞳は、まるで静かな湖面がすべてを映し込むように、エリーゼの言葉の奥にある痛みを、ありのままに受け止めているようだった。


 その眼差しに促されるように、エリーゼはさらに心の奥深くを吐露する。


「……もう、ずっと、、、食べ物の味がしないのです。目に映るものも、みんな灰色に見えて……。わたくしは、本当に血の通った人間なのか、それとも、両親の意のままに動く操り人形なのか、と」


 そこまで言って、エリーゼは息を呑んだ。こんなこと、誰にも理解されるはずがない。狂っていると思われても仕方がない。しかし、セラの表情は変わらなかった。ただ、深い悲しみを湛えた瞳で、こう言った。


「あなたは、ずっとお一人で、その深い霧の中を歩いてこられたのですね」


 そのたった一言で、エリーゼの心は大きく揺り動かされた。


 ーーあぁ、この人は、わたくしの孤独の本質を、その根源にある渇きを。すべて理解して下さるのではないか。


 エリーゼは動揺した。心の内を暴かれる様な感触と、すがり付きたくなる様な僅かな希望。その二つが、同時に胸中へ湧き上がる。


 セラの周りだけは、色が戻る気がした。ハーブの緑も、空の青も、セラの金色の髪も、鮮やかに目に映る。この人との繋がりだけが、今の自分を、色のある世界に引き留めている。その確信が、エリーゼの中に芽生え始めていた。


 会話が途切れた一瞬の静寂。エリーゼは無意識に、ドレスの上から自身の太ももに触れていた。夜ごと繰り返される儀式の場所に。しかし、あの儀式のことだけは、セラに対しても打ち明けることはできなかった。


 その日の夜。 私室に戻ったエリーゼは、いつものように裁縫箱から針を取り出した。ドレスの裾を捲り、白い太ももに、その切っ先を当てる。


 ぷつり、と皮膚を貫く鋭い痛み。じわりと滲む緋色の血。 痛みが、生きていることを教えてくれる。この血の色が、世界に彩りを与えてくれる。

 一度、二度と、自らを傷つけながら、ふと、エリーゼの脳裏にセラが浮かんだ。どこまでも澄み切った、深く、青い瞳。全てを受け止めてくれる様な、あの眼差し。


(あの人になら……)


 痛みに耐える唇が、かすかに震える。


(セラさんになら、話しても良いのかもしれない)


 この、夜ごと繰り返される秘密の儀式のことを。 あの、醜悪な婚約者のことを。この身を苛むすべての絶望を、あの人になら、打ち明けても良いのかもしれない。


 初めて他者に抱いた、かすかな信頼の光。それは、深い絶望の闇夜の中で、か細くまたたく星の様だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る