第1章 死の遊星の発見

ボイジャー2号の奇跡

 ボイジャー2号が最初の「異変」を捉えたのは、2088年のことである。打ち上げからすでに百年以上――実に111年もの歳月が流れていた。人類が20世紀末に送り出した小さな探査機は、設計当初の耐用年数をはるかに超えてなお、宇宙の闇を漂い続けていた。


 この探査機は1977年の打ち上げ以来、木星・土星・天王星・海王星といった巨大惑星の「壮大なグランドツアー」を完遂したことで知られている。数多くの衛星を発見し、惑星大気や磁場のデータを地球へ送り届けたその功績は、宇宙探査史における金字塔として長く語り継がれていた。しかし一世紀を経た時点では、もはや新たな科学的成果を期待される存在ではなく、「歴史的遺産」としての色合いが濃くなっていた。


 電源である放射性同位体熱電発電機(RTG)はすでに出力の大部分を失っており、主要な観測機器の多くは停止していた。地上の管制担当者にとって、ボイジャー2号から届く信号はもはや「新発見の源」ではなく、単に「まだ生きている」という事実を確認するための、かすかな心拍音のようなものだった。


 それでも通信は途絶えなかった。カリフォルニア州ゴールドストーンの深宇宙通信施設では、直径70メートルのパラボラアンテナが、夜ごと静かな砂漠の空に向けて姿勢を変え、太陽系の外から届く微弱な信号を拾い上げ続けた。わずか数ワットの出力で送り出される電波は、地球に届く頃には雪の粒よりも小さな光子のきらめきに等しかった。それでも研究者たちは、そのかすかな脈動を「遠い友からの手紙」として大切に受け止めた。ボイジャー2号は、人類が初めて太陽系の外へ送り出した「使者」であり、その声を聞き続けること自体に意味があると感じられていたのである。


 そんな折、受信データにごく小さな異常が混じった。背景の赤外線放射に、既知の天体では説明できない微細な吸収が記録されていたのだ。発見当時、ボイジャー2号は太陽から約190天文単位――海王星の軌道半径の30倍近い彼方――を漂っていた。すでに太陽圏を抜け、恒星間空間を進む孤独な探査機であり、主要な観測機器のほとんどは沈黙していた。わずかに稼働を続けていたのは、姿勢制御用に利用されていた広帯域の光電検出器や、補助的に残されていた分光測定系である。


 本来なら、この出力で「新たな発見」が得られるはずはなかった。機器の感度は著しく劣化し、ノイズが信号を覆い隠すことが常態化していたからである。にもかかわらず、2088年のある観測シーケンスでは、ある天体――すなわち、後年ケルヌンノスと呼ばれるようになる自由浮遊惑星――が、偶然にも背景の強い赤外線源(銀河面に広がる星雲の輝線)を横切る配置となっていた。そのため、本来なら完全に埋もれるはずのわずかな遮蔽が、「光の欠落」としてデータに刻み込まれたのである。


 探査機の航路、天体の進行方向、そして残存機器の感度特性――これらが偶然にも一瞬だけ重なり合った結果だった。後世の研究者たちは、この観測を「歴史の転換点」と位置づけ、老朽化した探査機が最後に果たした役割として語り継ぐことになる。


 しかし、この「遺言」ののち数年と経たず、ボイジャー2号からの通信はついに途絶えた。以後、その小さな探査機が再び声を発することはなく、現在も沈黙したまま恒星間空間を漂っている。けれども、その最後の観測こそが人類に重大な警告を与えたとして、やがて「ボイジャー2号の奇跡」と呼ばれるようになったのである。


 2080年代の天文学は、すでにインターステラ・プローブやGaia-IRといった新世代の宇宙望遠鏡群が運用を開始しており、恒星間空間のサーベイは急速に進展していた。ここで言うサーベイ(調査)とは、空の広い範囲を繰り返し撮影・観測し、見慣れない光や影を統計的に拾い上げていく作業である。例えるなら「夜空に無数の防犯カメラを仕掛け、通り過ぎる車や人を探す」ようなもので、宇宙に潜む未知の天体を見つけ出す手がかりとなった。


 当初、ボイジャー2号からの信号は単なるノイズとして片付けられた。老朽化した機器が出す誤差か、あるいは受信側の処理ミスにすぎないと考えられたからである。事実、過去にもボイジャー2号のデータには説明困難な「揺らぎ」が混じることがあった。しかし数か月後、まったく同じパターンが再び現れた。しかも今度は別の観測シーケンスに重なって記録されており、単なる偶然や機械的故障では説明できなくなっていた。


 この異常に注目したのが、当時欧州宇宙機関(ESA)の外郭研究所であるガイア解析センターに所属していた若手のポスドク研究員、レオナルド・エスポジトである。


 彼はもともと、恒星間空間に存在するとされるダークオブジェクトの分布を統計的に推定する研究を行っていた。ダークオブジェクトとは、恒星のように自ら光を放たないため直接は見えず、赤外線や重力の影響を通じてのみ存在を知ることができる暗黒天体の総称である。自由浮遊惑星や褐色矮星、冷えた恒星残骸などがその代表例だ。


 彼はボイジャー2号から届くデータも比較対象として調べていた。膨大な観測データに紛れた微細な異常に気づいたのは、ひとえに彼が「誤差」を丹念に拾い集める地道な作業を続けていたからであった。


 エスポジトは「恒星に属さない天体」の存在可能性に関心を抱いていた。博士課程ではダークマター分布と孤立惑星の関係を研究し、ポスドクとしてESAの解析センターに籍を置いてからも、観測データの統計的揺らぎを丹念に拾い上げる仕事を続けていた。そうした経歴が、偶然のように見える発見を必然へと導いたのである。


 エスポジトは数週間にわたって受信データを再解析し、異常な吸収スペクトルが偶然やノイズではなく、恒星に属さない巨大天体の兆候である可能性を指摘した。特に彼は「既知の星間ガス雲にしては吸収が狭すぎる」「既知の恒星残骸にしては放射が弱すぎる」と論じ、その天体が自由浮遊惑星(恒星の周りを回らず銀河空間をさまよう惑星)であるという仮説を提出したのである。


 彼の発表は2089年の学会で報告されたが、当時の反応は冷ややかだった。多くの研究者は「老朽化した探査機の誤差」として片付け、議論は深まらなかった。発表の場では会場のざわめきが起こり、ある高名な研究者が「老朽機の戯言にすぎない」と一蹴したという逸話も残っている。


 このとき、のちに人類史を揺るがす「死の遊星」の影を本気で取り合う者は少なかった。だが、追加観測が進むにつれてその正しさが裏づけられていくと、エスポジトの名は「ケルヌンノス危機の最初の証言者」としてしばしば引用されるようになる。本人は生涯を通じて慎重な科学者として振る舞い、大げさな表現を嫌ったと伝えられているが、結果的にその発見は「恒星防災学」という新たな分野の出発点を象徴する出来事として記憶されることになった。

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