おおかみしょうねんのこい
青井夜
第1話:忘れもの
――狼が来た。
少年は繰り返し叫んでいた。
***
ある日、学校の旧倉庫の清掃中に、教員である古賀啓介は一冊のノートを見つけた。
まだ目新しく埃の積もっていないそれは、倉庫の端にひっそりと隠れるように置かれていた。
拾い上げた大学ノートには、表紙にも裏表紙にも何も書かれておらず無地のまま。
確認するために開いた古賀の目に、丁寧な文字で綴られた一行の文章が飛び込んで来た。
――僕は狼少年になりたかった。
古賀はまばたきをして、その言葉を読み返した。
思わせぶりな書き出しだった。しかし不思議と嘘くささは感じず、それが絞り出された本音であることが、古賀には感じられた。
ノートは古賀の手に収まり、そのままそっと彼の鞄にしまわれた。
教員として褒められたことではないと分かりながら、無視できない衝動が彼の心を動かしていた。
***
僕は狼少年になりたかった。
ずっと嫌いだって言い続ければ、本当にあなたのことを嫌いになれたらいい。
何にも思って居ないって、言い張れたらいい。
そうして誰にも気づかれぬまま夜を越え、翌朝無残に横たわるんだ。
***
ホームルームを終えようとした古賀の耳に、ばたばたと大きな音が聞こえてくる。その、もはや聞き慣れてしまった音に、古賀は他の生徒に気づかれぬようひそかにため息を吐いた。
がらりと音を立てて開かれる扉。
「早紀ちゃん! 会いに来たよー!」
「廊下は走るな!」
顔を見せると同時に大きく声を上げた少年に対して、古賀は負けず劣らずの声で注意する。
そんな古賀に対して、少年は気にした様子もなく首を傾げた。
「あれ? 古賀ちゃん、まだホームルーム中?」
「先生って呼べ。お前が来るのが早すぎるんだ。倉橋、お前のクラスは真逆の端っこだろ」
教室の中に入って来た少年に対して、威厳を出すように腕組みをするが、長身の少年を身長161センチの古賀は見上げるしかない。
まるで友達にするように少年――倉橋大翔は話しかけてくる。
「やだなぁ、古賀ちゃん! こういう時にこの恵まれた身体能力を使わないでどうすんのさ!」
「バレーで使えよ、バレー部」
「それはそれ、これはこれだってー。で、まだホームルーム中?」
その言葉に答えずに、古賀は教室内を見渡す。
生徒たちの空気はすでに緩んでおり、まじめな話をする雰囲気ではない。
タイミングとしてはちょうどホームルームを終えようとしていたところだった。だから特に問題はないはず。
そうは思いつつも何か釈然としない気持ちを抱えながら、古賀は終礼の挨拶を伝えた。
***
羊の数を数えるように、あなたの嫌いなところを指折り数えた。
いくつ数えても終わりがこないのは、ここに狼がいないから。
いくら叫んでも、狼はつれないままだ。
***
教室から出ていく古賀を見送って、倉橋は机の合間を抜けて歩く。
そうして一人の女子生徒に挨拶をした。
「や! 早紀ちゃん」
席から立ち上がり倉橋の方を向きながら、橋田早紀は返事を返す。
「こんにちはー、倉橋君。今日もアキのお迎え?」
「は? 何言ってんの、早紀! そんなわけないでしょ!」
橋田の言葉に即座に反応したのは、後ろの席の方からやって来た橋田の親友、峰倉章子。
背の高い二人と並んでいると、ごく一般的な身長の橋田がとても小さく見えてしまう。
そんな橋田をにこにこ見下ろしながら倉橋は言う。
「早紀ちゃんに会いに来たんだよー」
「でも、毎回アキと一緒に体育館に向かって、一緒にバレーしてるよね?」
「行くところ同じだと必然的に一緒に行くことになっちゃうだけだから。別に示し合わせて一緒に向かってるわけじゃないから。バレー部だって男子と女子で分かれてるんだから、一緒にバレーしてるわけじゃないし!」
「アッコと同じチームで戦うのも楽しそうだけどな!」
「こんなうるさい奴となんて、あたしはごめんよ!」
橋田の問いに峰倉は強い口調で言い募るが、倉橋がからりと笑って口を挟み、それを峰倉がさらに否定する。
ぽんぽんと繋がる会話に、橋田は笑った。
「二人は仲いいなぁ」
「違う!」
「もちろん、早紀ちゃんとも仲良しさ!」
倉橋がわざとらしい笑顔とポーズを取って言ったセリフに、橋田はうなずいて峰倉を見上げる。
「もちろん、私とアキは仲良しだよ。ね、アキ?」
その言葉に、峰倉もうなずいた。
「そうね、早紀」
「え、俺は?」
「さすが我が親友! アキ、大好き!」
「ねえ、俺は? アッコ? 早紀ちゃん?」
「早紀は大げさなんだって」
倉橋のことは無視して峰倉に抱き着いた橋田と、倉橋から目をそらしつつ橋田を受け止める峰倉。
そして、その後ろから二人に話しかける倉橋。
これはこの三人の、いつもの光景だった。
そうしてしばらく談笑していると、後ろの席でがたっと大きな音がする。
橋田の真後ろの席にいた少年――三島悟が机を蹴り上げて立ち上がった音だった。
三島は三人の方をじろりと睨みつけて、そのまま教室を出ていく。
「おぉ、こわっ」
「ちょっとうるさかったかな?」
橋田が言うのに、峰倉が首を振った。
「三島が短気なだけでしょ。まあでも、うちらもそろそろ部活行かなきゃね」
「おっと、ちょっと話過ぎたか」
教室の壁にかけられている時計を見て、倉橋が言う。
確かに、少しばかり時間が過ぎていた。
橋田が言う。
「部活がんばってー」
「早紀ちゃんが応援してくれるなら百人力だな!」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと行くよ」
まだ橋田にちょっかいをかけてこようとする倉橋の腕を引いて、峰倉は教室を出ていく。
そんな二人を手を振りながら見送って、橋田は呟いた。
「やっぱり仲いいよ、二人は」
***
僕の呼吸を閉ざす、あなたが嫌いだ。
僕の寿命を削る、あなたが嫌いだ。
僕の心を開く、あなたが嫌いだ。
そうであるべきなんだ。
――そうだろう?
***
日は傾き校舎の中から生徒の姿が薄れ、すっかり物寂しくなった教室に、古賀は一つの人影を見つけた。
「……橋田?」
その声に女子生徒である橋田早紀は弾かれたように顔を上げてこちらを見る。
だが薄暗く赤みを帯びた空間は、人の表情を読みづらくしていた。
ゆっくりと近づいていくと、まるで夢を見ていたような声で橋田は呟く。
「……先生」
「どうした、こんな時間まで」
そろそろ活動に活発な運動部の部員も帰り支度を始めた時分だ。
橋田は文芸部所属だが所謂幽霊部員で、活動をしている姿を見たことがない。
「あはは、ちょっと忘れ物をしちゃって」
小さく笑う橋田の机の上を見ると、引き出しの中のものをぶちまけたように乱雑に文具やノートが散らばっていた。
几帳面な橋田らしくもない様子に、よほど慌てて探していたらしい。
「見つかったのか?」
「……はい。大丈夫です」
「早く帰らないと暗くなるぞ」
「いま片付けます」
そう言ってテキパキと物を引き出しの中にしまい始めた橋田は、一冊の本を手に取って動きを止めた。
「橋田?」
そうして細い指先は本をパラパラとめくり、机の上に広げて文字をなぞる。
それは現代文の教科書――古賀の担当教科の教科書だ。開かれたページに書かれていた文字は「こころ」。
橋田は独り言のように呟いた。
「先生、今までで一番心に残ってる恋は、いつですか」
その言葉に古賀の脳裏をよぎったのは、苦い過去の話だ。
それこそ目の前の少女と同じくらいの、まだ少年だった古賀の過去の恋。
「……さて、な。お前にからかうネタを提供するわけにはいかない」
「あは、バレましたか」
「そういうお前は? どうなんだ、女子高生?」
「さて、どうでしょう?」
笑う少女の顔は何故だか、過去の自分に似ている気がした。
***
あなたにとっては、なんてことのない一言だろう。 けれどそれは、倦怠に染まった僕の心を壊した。 もう、変わり映えのしない日々を送ることが出来なくなってしまった。
だからこそ僕は、狼の訪れを叫ばずにはいられなかったんだ。
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