第9話 パーティーの役立たず
森の奥から現れたのは、赤黒い巨躯。
鋼のように硬質な毛皮を纏い、口からは白煙を吐き出しながら、二本の牙が獅子のように長く伸びている。
「……あれは……!」
私の鑑定眼が勝手に反応し、視界に浮かんだ文字を映し出す。
——《異常個体:獅牙のレッドベア》
——危険度:Sランク以上。推奨:討伐不可。
「うそ……討伐、不可……?」
次の瞬間、レッドベアの咆哮が轟き、地面が震えた。
その巨体が突進してくるだけで、木々がなぎ倒され、土煙が爆ぜる。
「構えろ!」
カイン様が剣を掲げ、ガレスさんが盾を構え、ミリアさんが詠唱を始める。
私は震える手で火球を放った。——けれど、炎は毛皮に弾かれ、全く効果がない。
「ダメだ……!」
爪が振り下ろされ、私はその衝撃に足をすくませて動けなくなった。
「ルピ、下がれ!」
エレナさんが私を庇い、剣で爪を受け止める。火花が散り、彼女の腕が軋んだ。
その間にミリアさんの雷撃が放たれ、ガレスさんが体当たりで軌道を逸らす。
カイン様の剣が閃き、ようやくレッドベアの肩を切り裂いた。
「ぐおおおおッ!」
怒り狂った巨体が暴れ、地面が裂ける。
私は必死に鑑定眼で弱点を探そうとしたが、視界は黒い靄に覆われていて何も見えない。
「見えない……何も分からない……!」
ただ叫ぶことしかできなかった。
結局、最後の決め手はカイン様の渾身の一撃だった。
彼が魔力を剣に纏わせ、獅牙のレッドベアの首筋を断ち切る。
巨体が地響きを立てて倒れ、血の匂いが辺りに広がった。
——勝った。
けれど、私はただ怯えて、守られていただけ。
「……ルピ」
カイン様の視線が突き刺さる。剣を握る彼の眼差しには勝利の喜びではなく、苛立ちが浮かんでいた。
「次は……本当に置いていくぞ」
言葉が出なかった。
エレナさんだけが、私の肩にそっと手を置いてくれた。
でも、あのとき守られた感触が、ただ私が“足手まとい”であることを証明してしまったようで……胸が張り裂けそうに痛んだ。
その時——。
「ギギッ……ギャアアアア!」
耳をつんざく咆哮。
森の影から、無数の赤い瞳が浮かび上がった。
木々を揺らし、黒い影が一斉に飛び出す。
「……ゴブリン!?」
だが、ただのゴブリンではなかった。
粗末な棍棒や槍を持ち、列を成して押し寄せるその様子は、まるで軍勢。
百を超えるかもしれない数のゴブリンが、獲物を見つけた肉食獣のように一斉に突撃してきた。
「くそっ、休む暇も与えねぇか!」
ガレスさんが盾を構え、カイン様が剣を振るう。ミリアさんは詠唱を急ぎ、炎を放つ。
私は後ろで震えるしかなかった。
鑑定眼が勝手に情報を映し出す。
——《群体行動:統率下にある》
——《危険度:B〜Aランク》
「群れ……? これ、ただのゴブリンじゃない……!」
思わず声に出したが、誰も私の言葉に耳を傾ける余裕はなかった。
「ルピ、下がってろ!」
エレナさんが私の前に立つ。
私は杖を握りしめ、小さな火球を放つが、群れの一匹を倒すことすらできない。
ただ必死に逃げるように後退し、足をもつれさせて転んだ。
ゴブリンの一体が牙を剥いて迫る。
「いやっ……!」
目を閉じた瞬間、鋼の音が響き、エレナさんの剣がゴブリンを斬り払っていた。
「ルピ、立て! ここで倒れるな!」
怒鳴る声は必死で、だけど優しかった。
でも、その優しさが余計に胸を抉る。
——私はまた守られているだけ。
戦っているのは、私以外の仲間たち。
「……っ、多すぎる!」
私の喉から悲鳴が洩れた。鑑定眼に次々と浮かぶ数値と文字。
——《個体数:100以上》
「囲まれる前に退くぞ!」
カイン様の声が鋭く響いた。剣を振るって数体のゴブリンを薙ぎ払う。
だが、その目は冷酷に私へと向いた。
「……ルピ。お前が囮になれ」
「……え?」
心臓が凍りついた。
耳を疑うような言葉。けれどカイン様の瞳は本気だった。
「動きの鈍いお前を囮にすれば、他の者は逃げられる」
「ま、待ってカイン! そんなの……!」
エレナさんが叫ぶ。しかしカイン様は聞く耳を持たない。
「選択肢はない。全員で死ぬか、一人を犠牲にするかだ」
次の瞬間、ミリアさんが背を向け、逃走の詠唱を始める。
ガレスさんも歯を食いしばりながら、盾でゴブリンを押し返しつつカイン様に続いた。
「……嘘、でしょ」
私は立ち尽くす。足が震えて動かない。
ゴブリンの群れが私へ殺到する——。
「ルピ、下がれ!」
鋼の音が響く。エレナさんが剣を振るい、私の前に立ちふさがった。
「私は置いていかない! 絶対に守る!」
他の仲間の背はもう見えない。
残されたのは、私とエレナさん、そして押し寄せるゴブリンの軍勢。
——囮として見捨てられた私を、ただ一人守ろうとしてくれる人がいる。
涙が滲む視界の中で、剣を振るうエレナさんの背中だけが、唯一の光だった。
剣を振るい続けるエレナさんの肩は、もう血に濡れていた。
幾度も私の前に立ちはだかり、迫るゴブリンを斬り倒す。
けれど数は減らない。むしろ次から次へと押し寄せてくる。
「くっ……きりがない……!」
エレナさんの声が荒くなる。
私も必死に火球を撃った。小さな炎がゴブリンの一匹を焼いたが、それは全体から見ればほんの一瞬の足止めにしかならない。
「どうして……どうしてこんなに……!」
鑑定眼が映し出すのは、無数の「危険」の文字列。視界が黒に染まり、心臓が凍りつく。
その時、ゴブリンの棍棒が横から叩きつけられた。
「っ……!」
エレナさんの剣が吹き飛び、地面に転がる。
「エレナさん!」
私は手を伸ばしたが、別のゴブリンが彼女の腕を掴み、ねじ伏せようとする。
私自身も杖を奪われ、背中を押されて地面に倒れ込んだ。
「いやっ……!」
ゴブリンの牙が眼前に迫る。
重い体重で押さえつけられ、身動きができない。
エレナさんも必死に抗っているが、あまりにも数が多すぎた。
武器を失い、四方を囲まれた私たちは、もう——。
「ここまで……なの……?」
胸が押し潰されそうで、肺に空気が入らない。
地面に押さえつけられ、杖もなく、目の前には黄色く濁ったゴブリンの牙。
腕も脚も、必死に動かしているのにまるで力にならない。
ただ、じわじわと迫る死の匂いが、私の全身を蝕んでいく。
——どうして。
私は勇者パーティーの一員のはずだった。
勇者カイン様の隣で戦う仲間のはずだった。
でも現実は違う。私は足手まといで、囮にされて、見捨てられて。
ここに残ったのは私と……エレナさんだけ。
「……いやだ……!」
声が震え、涙が滲む。
生きたい。まだ死にたくない。
けれど、戦えない。守れない。何もできない。
勇者様の言葉が頭の奥で何度も反響する。
——役に立たなければ置いていく。
——囮になれ。
それが現実になった今、私には生きる価値があるのだろうか。
絶望という言葉は、こういう感情のためにあるのだと、初めて知った。
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