第5話 誉聖のグリフォン
それから、一葉は狩りを続けた。
朝は鳥の声ではなく、森の奥から響く獣の咆哮で目を覚まし、腹を満たすために刀を手に立ち上がる。
最初は震える手で獲物を解体することすらままならなかった。だが十日も経たぬうちに、血の匂いにも、獣の断末魔にも慣れ始めていた。
炎で焼いた肉を口にするたび、体内に熱が流れ込み、骨や筋肉が軋みながら強化されていく。花属性の浄化がなければ即死するような魔力の奔流も、一葉の中ではただの“栄養”に変わった。
狼、猪、蛇、熊。森に棲む魔獣たちは次々とその命を散らした。
戦うたびに桜霞が魂を啜り、肉を食らえば新たな力が体を満たす。
最初は一匹仕留めるだけで命がけだった戦いも、次第に息をするように終わる。
——時の感覚は、次第に失われていった。
夜空の月の満ち欠けでおおよその日数を数えていたが、やがてそれすらどうでもよくなる。
生き延びることと、狩ること、食らうこと。
その三つだけが、一葉の時間を形作っていた。
血に濡れた衣服はいつしか獣の毛皮で補強され、傷もまた花の力で癒え、痕すら残らない。
肉体は日ごとに強靭になり、刀を振るえば花弁の炎が舞い、森の空気そのものが揺らぐほどの威力を放つようになった。
人里から遠く離れたこの森で、彼がどれほどの年月を過ごしたのか——。
もはや本人ですら覚えていない。ただひとつ確かなことは、彼の存在がこの森の生態を変えたことだった。
森の奥へ進むうち、木々が途切れ、苔に覆われた石段が姿を現した。
見上げれば、崩れかけた柱と風化した彫刻が並び立ち、かつての威光を今に伝えている。
「……遺跡?」
人の営みがあったことを示す唯一の痕跡。荒れ果てた森の中で、そこだけが異様な存在感を放っていた。
だが、一葉の足が止まる。
その遺跡の入口前に、堂々と鎮座する影があった。
大鷲の翼、獅子の下半身。金色の瞳に、威厳を宿した神獣——グリフォン。
ただの魔獣ではない。空気が震えるほどの聖気を放ち、苔むした石像さえ頭を垂れるかのように沈黙していた。
「……でか……」
翼を畳んだままでも、巨体は馬の数倍はあった。羽根は白銀に輝き、風が吹けば羽ばたかずとも砂埃を払う。
その存在は、森を徘徊する魔物たちとは一線を画していた。
一葉は知らない。
この個体こそ、数ある魔獣の中でも特異な存在——異常個体。
人の歴史において幾度も「誉聖(よせい)のグリフォン」と記され、神域の守護者として恐れられ、そして畏敬された伝説級の魔獣であることを。
グリフォンの金色の瞳が、静かに一葉を射抜く。
それは威嚇ではなかった。だが、その眼差しに込められた威圧感だけで、全身が硬直する。
呼吸すら忘れるほどの圧迫感——「ここから先は、容易に進むな」と語りかけるような神聖な威圧だった。
金色の双眸が煌き、誉聖のグリフォンが翼を広げた。
突風が巻き起こり、砂塵が舞い上がる。次の瞬間、巨体が矢のように迫った。
「——っ!」
一葉は咄嗟に桜霞を構え、横薙ぎに斬り払う。
しかし爪と刃が交わった瞬間、衝撃で体が弾き飛ばされた。背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。
それでも、即死には至らない。
殺そうと思えば、あの巨体と速度で頭ごと粉砕できたはず。だがグリフォンはあえて外していた。
「……まさか、これは……」
立ち上がると、再び翼が唸りをあげる。
爪は寸前で止まり、牙は頬を掠めるだけ。確実に一葉の反応を見極めるような軌跡を描いていた。
そのたびに全身を襲う威圧感に足が竦みそうになるが、どこか「まだ余地がある」と告げる余裕が含まれている。
「俺を……試しているのか?」
その言葉を口にした瞬間、心臓が高鳴った。
確信はなかった。だが直感がそう告げていた。
——誉聖のグリフォンは、自分を“敵”ではなく“挑戦者”として見ている。
それを越えられるかを測っているのだ。
一葉は刀を握り直し、荒い息を吐いた。
「……いいぜ。試すなら、全力で応える!」
桜霞が低く唸り、妖気と桜炎が迸る。
次の瞬間、光と焔花が交錯する死闘の幕が切って落とされた。
翼が唸りをあげ、誉聖のグリフォンが再び突進してくる。
風圧だけで大木が揺れ、砂塵が巻き上がる。
一葉は歯を食いしばり、膝を踏み込んだ。
「……奥義、《桜極焔斬》!」
刃に炎と花が宿り、巨大な一閃が走る。
だが、グリフォンは翼の一振りで容易く弾き払った。
衝撃波に吹き飛ばされながら、一葉は血を吐く。
(……通じない……! でも、退けない!)
喉の奥から熱がこみ上げる。
桜霞が低く唸り、妖気と炎が刀身に渦巻く。
その瞬間、一葉の脳裏に閃いたのは、ただ一撃に頼るのではなく、炎と花を連続の斬撃として編み上げ、龍のように畳み掛ける新たな奥義の構想だった。
「——俺の、第二の奥義!」
刀を構え直し、渾身の力を込める。
「《桜龍焔連斬》ッ!」
桜炎の斬撃が連続で奔り、炎の龍が咆哮を上げるかのようにグリフォンへ迫る。
七連の斬撃が絡み合い、炎と花弁の渦が龍の姿を形作った。
グリフォンの翼と爪がそれを受け止めるが、圧倒的な斬撃の奔流に、初めてその巨体が後退する。
轟音と共に衝突が収まり、舞い散る花弁と煙の中で、一葉は膝をつきながらも刀を握り締めていた。
「……はぁ、はぁ……やった……」
視界の奥、誉聖のグリフォンは確かに立っていた。だが、その金色の瞳に宿っていたものは、怒りではなく……僅かな“敬意”だった。
巨体を揺らし、グリフォンは一声だけ高らかに鳴いた。
それは敗北を告げる咆哮ではなく、勇気ある挑戦者への称賛。
やがて翼を大きく広げ、遺跡の入口を守っていたその身を横へ退ける。
「……通して、くれるのか」
一葉は震える足で立ち上がり、遺跡の闇を見据えた。
誉聖のグリフォンに認められたその瞬間、彼はこの森におけるただの生存者ではなく、試練を越えた者となったのだった。
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