八月の標本

@kazumae

第1話

八月の火曜日、僕は自転車のペダルを漕いでいた。アスファルトが陽炎を立てている。まるで世界全体が溶けかけているみたいだった。


老人ホームは丘の上にあった。白い建物だ。病院みたいに白い。僕は自転車を停めて、汗を拭った。蝉の声が頭の中で反響していた。


「君が田中君かい」


受付の女性はそう言った。僕は頷いた。夏休みの課題だった。戦争体験者の話を聞いて、レポートを書く。クラスの誰もやりたがらなかった課題だ。でも僕は、なぜか手を挙げた。今でも理由はわからない。


山崎さんは三階の端の部屋にいた。九十三歳。窓からは街が見下ろせた。小さな箱庭みたいな街だ。


「座りなさい」


山崎さんはそう言った。皺だらけの手が、お茶を注いだ。緑茶だった。熱い緑茶だ。八月に熱い緑茶を飲むなんて、と僕は思った。でも何も言わなかった。

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