第12話
俺は通気口へと体を押し込む。
先の見えない暗闇の中へ、自分の存在が少しずつ沈み込んでいった。
それは、まるで暗い水の中に潜り込むかのような感覚だった。
手足を限界まで縮めながら、狭い空間をずり進む。空気の流れがほとんどない。呼吸がしづらい。背中に触れる金属製の壁は冷たく、その感触がダクトのような通気口だと教えてくれた。
幅は人一人がやっと通れるほどしかない。この窮屈な空間では、背中を丸めて、つま先から一歩ずつ、音を立てないように前進するしかなかった。
周囲は真っ暗で、何も見えない。
手探りで周囲の壁を確認しながら、ゆっくりと前に進む。肘を擦りながら四つん這いになって、まるで盲目の虫のように這っていく。通気口の中は、古い木材や金属、そして、埃の匂い。
ズリズリと擦るような音が、狭い空間に吸い込まれていく。
俺はそのまま、身体を引きずりながら前へと進む。
その時、前方に微かな明るさが見えた。おそらく、ろうそく一本分にも満たないような僅かな光だった。だが、今の俺にとっては、救いの光そのものに思えた。
体の自由がきかない空間の中を、少しずつ進んでいく。肩が壁に擦れ、額には汗が滲んできた。金属の継ぎ目に躓きそうになる。膝が痛い。それでも、前を向いて進むしかなかった。
ジリジリと這いずり進むうちに、空気の流れが少しずつ変化していくのを感じた。光源に近づくにつれ、空間がわずかに広がっていく。木材の匂いが消え、調理油っぽい匂いを感じられはじめた。
なんだろう?
やがて、通気口の出口らしきものが俺の前に現れた。錆びついた格子状の鉄枠が、俺が進む先を塞ぐようにあった。
四角い枠組みに縦横の細い鉄の棒が等間隔で組み込まれた、おそらく通気口用の格子だ。長年使われていないのか、端の部分は浮き上がっている。
この柵は、きっと通気口の出入口に設置する枠のようになっているに違いない。
その向こうには、白いタイル張りの床とそこに置かれたモノが見えた。白いタイル張りの床は清潔そうだ。
そして、ステンレス製の何か、厨房に設置する器具らしきもののが床に設置されている。
おそらく、この柵の向こうは厨房のような場所だろう、と思った。
少なくとも、人はいない。つまり、この先に彼女はいない。
四つん這いのまま、この格子に近づいた。芋虫のように体を蠢かせながら、少しずつ前進した。
枠がガタついている。
通気口が狭いため、今の俺には頭で柵を押すしかできないのだが、おそらく押せば、枠ごと外れるに違いない。
いや、そう考えるしかない。今の俺には他に道がないのだ。
俺は意を決して、頭から格子に体当たりを試みた。
かなり無謀な行動だった。
一度の体当たりでは、十分に枠を開けることは叶わない。
身体が拘束されているに等しいため、勢いを十分につけることができないという理由もある。
何度か、頭突きを繰り返す。
すると、おそらく、簡単に通気口の枠にはめ込んでいただけの格子の柵が床へと倒れた。軽い金属音と共に、格子は白いタイル張りの床に転がった。
何とか、脱出できそうだった。
俺が這い出てきた通気口は、厨房の壁と床が接する部分に開いていた。
這うようにして少しずつ体を押し出す。そのまま、慎重に床へと滑り出た。
ズルズルと身体を移動させ、ようやく狭かった通気口から脱出した。
そこは高級旅館のような厨房だった。明るい室内灯の下で、無数の調理器具がある。
この清潔な調理場には、まるで展示品のように業務用の調理台が何台も並んでいた。
落ち着くと、この調理場らしい調理中の香りが鼻に届いていることを改めて認識した。
ふと思った。
これまで屋上で食べた弁当を作っていた場所は、ここなのだろうか?
あの丁寧に作られた料理の数々。卵焼きの優しい甘みや、野菜の彩り、そしてソースの香るハンバーグ。
昼食のたびに、俺はそれを食していた。
始めから、彼女の行動目的は分からなかった。
けれども、今思えば、それはどこかおかしい話だった。
これまで何しろ、ろくに話したことすらない相手。そんな相手に、先輩だからといって、弁当を作ってくるだろうか?
いつも、彼女は楽しそうに料理を作っていた。毎日のように、あの弁当の中身を変えながら、俺に手渡していた。それらの思い出が、今となっては恐怖でしかない。
周囲を改めてみると、この厨房らしい香りの出所に気がついた。
それは、煮込み中の大きな鍋。間違いなく、調理中だった。
白い壁に囲まれたコンロの上にある、一つの大きな鍋。
その火加減は弱く、まるで何かをじっくりと煮込んでいるかのようだった。
中からは湯気が立ち上り、なんとも言えない匂いが周囲に満ちている。この部屋の匂いのもとはこれだろう。最初は美味しそうな香りに感じた。まるで、油で揚げた肉のような。ある日から彼女が作ってくれるようになった、彼女の特製唐揚げを思い出す。
匂いは確かに、彼女が試行錯誤をしたと言っていた唐揚げだ。ただ、その匂いがあまりにも濃い。まるで肉の旨みを何倍にも凝縮したような、そんな異様な甘みすら感じられる匂いとなっている。
俺は、その鍋に近づいた。
一歩進むごとに匂いが強くなる。もはやそれは料理の香りとは呼べないほどの、吐き気を催すような臭気へと変わっていった。
反射的に鼻を押さえる。
でも、もう止まれない。これが、俺が何度も口にしていた料理の正体なのだと、直感的に悟っていたからだ。
目が痛くなるほどの刺激臭を我慢しながら、さらに近づく。
湯気の向こうで、何か不気味な白いものが見えた。
鍋の中にはどろりとした生温かい液体が溜まっていて、その表面に無数の白い小片が浮かんでいた。
それらの白い小片は、どれも月のように湾曲した形をしている。
その瞬間、背筋が凍るような恐ろしい事実に気がついた。
人の爪。
浮かんでいるのは人の爪だった。
小さな三日月形に切り取られた無数の爪が、この大きな鍋の中で音を立てて煮込まれていた。大量の人間の爪が、生暖かい液体の中で過熱されているのだ。
人体の一部を食材として扱うかのような、そんな倒錯した光景が、俺の目の前で展開されていた。
うぇ…。
思わず、嗚咽が漏れた。
俺はすでにあれを食べてしまった。あの弁当の味が、あの唐揚げの味が、俺にはとてもおいしかった。
けれども、これは…。
吐き気が込み上げてくる。これまで口にしてきたものが、まさかこんな――。
すぐに口を手で押さえたが、吐き気は収まらない。
胃の中が捻じれるような吐き気。それは単なる生理的な反応だけではない。今まで何も知らずに口にしていたものへの恐怖。そして、そんな料理を作っていた彼女の異常さ。
俺はよろめきながら、鍋から距離を取り、付近にあった調理台に体重をかけた。
もうだめだ。
何もかも…。
俺は調理台に寄りかかったまま、左手で口を押さえ、右手で台を掴んで踏ん張った。
しかし、鍋からの異様な匂いが、まるで実体を持つかのように俺に纏わりついてくる。
喉の奥が痙攣を始めた。これまで食べてきた弁当の味が、恐ろしい意味を持ち始める。
毎日のように口にしていた料理。美味しいと感じていたその味の正体が、今になって鮮明に蘇ってきた。
あの味。過剰な味付け。なぜ、それが必要だったのか、今なら分かる。
吐き気が再び押し寄せてきた。
今度は我慢できそうにない。俺は調理台の上に置かれたステンレスの大きなボウルに向かって体を傾けた。喉から胃の中身が込み上げてくる。
それは食道を通ってこみ上げてくる。
喉の反射は正直に、異物を思ったモノを俺の口へと吐き出す。
「ウゲェ…、ゲェ…ゲェ…。」
俺は昼飯の内容をそこへぶちまけた。
一通り、吐き出すと、俺は荒い息を繰り返した。
すると、鍋からのあの匂いが俺を襲う。
地獄だった。
しかし、俺はそこでなんとか立て直す。
なんとか冷静になった俺は、目の前のものが目に入った。
目の前にボウルに入った、吐しゃ物。
ステンレスボウルの中にある、それ。
その黄土色の未消化物。そこに交じっているのは、明らかに多い黒い毛だった。
長く細い黒い毛。
「うっ…わあっ。」
俺の声が漏れる。
もう嫌だ。いやだった。
…それが元は何だったのか、もう知りたくもない。
その時、背後から物音がした。誰かが厨房に入ってきた気配。
いや違う。気配というものは、ずっとあった。彼女は、ずっと前から、俺の気づかないところで見ていたのだと、突如として理解した。
まるでこの厨房という空間そのものが彼女であるかのように。
俺は監視されていた。
そして、今のタイミングで彼女はこの厨房に入ってきたのだろう。
それはまるで、モノの分別がつかない小さな子が昆虫を残酷な方法で殺してしまうかのように。
彼女は俺を…。
「先輩?」
振り返る勇気が出ない。
「せっかく作ったのに、もったいないですよ?」
その言葉には、どこか慈しむような優しい雰囲気がある。しかし、その優しい声にこそ、底知れない狂気が潜んでいるのが分かった。
ゆっくりと、その声が近づいてくる。
「せっかく丁寧に作った料理なのに……。まったく先輩ったら。」
俺は、逃げようと周囲を見回す。しかし、出口など見当たらない。業務用の調理台が壁のように立ち並び、まるでこの空間全体が俺を閉じ込めるための罠のようだった。
もう、選択肢はなかった。ゆっくりと振り返る。
そこには、いつものように微笑んでいる彼女の姿があった。
見慣れた制服姿のナズナが、まるで何事もないかのようにそこにいる。
「それに、お仕置き部屋から出ちゃダメ、って言ったじゃないですか。」
じっと、こちらを見ながらそう言った。
恐怖で言葉が出ない。彼女の後ろにはいくつかのドアがあった。
そこに行くしかない。
「先輩、また逃げようとしてますね。」
彼女の口調は、まるでいつもの料理の説明のように穏やかだった。しかし、その瞳の奥には笑みのかけらもない。制服のスカートを揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
「しょうがないですね。」
彼女はそう言いながら、一番近くの調理台へと歩み寄った。引き出しを開け、そこから大きな包丁を取り出す。その刃は大きい。そしてそれは、冷たい光を放っていた。
牛刀というものか、まるで小刀にも見える獲物を持った彼女がそこにはいた。
「先輩、少し動けなくしますね。」
もはや、彼女の手には大きな包丁が握られ、刃先が光を反射していた。いつもの後輩の姿なのに、それは今までとはまるで違う存在に見えた。
俺は無意識に後ずさる。一歩、また一歩。背中が調理台に当たって止まった。もう下がれない。
その手の包丁が、まるで生き物のように俺を捕まえて離さない。
動けなくする?
…ああ、それはきっと、ろくでもない方法だろう。
この狭い厨房の中で、彼女はゆっくりと俺に近づいてきた。
彼女が一歩進むたび、俺は横へと体を移動させる。調理台の端から端へ。まるでネズミを追い詰める猫のように。
作業台の上を必死で見回す。何か、武器になりそうなもの。特にない。
目に入ったのは、大きな紙袋。
内容物は小麦粉。
すでに開封されていた紙袋。大きさは業務用サイズで、手の届く位置にあった。
小麦粉。
その瞬間、閃いた。
「まったく、こんなところまで…。」
その声には哀れむような響きがあった。
彼女の包丁を握る手には迷いがない。俺たちの間はもう一メートルもない。
今だ!
その時を逃すまいと、俺は小麦粉の袋ごと掴み、ナズナめがけて投げつけた。
「キャッ!」
袋から、白い粉塵が噴き出す。一瞬にして視界が真っ白になった中、包丁を持つ彼女の姿が見えなくなる。
白煙の向こうで彼女は動きを止めた。
その一瞬の隙を見逃すまいと、俺は脇を擦り抜けるように走った。
さきほど、彼女が入ってきたドアに、全身で体当たりをするかのように殺到する。鍵はかかっておらず、古びた木製の扉は開いた。
「先輩──。」
ナズナの声が呪詛のように背後から追いかけてくる。振り返る余裕などない。
扉から先は、廊下ではなかった。
あの旅館のような場所から、外に出ていた。
どうやら勝手口のようなものだったようだ。
周囲には、月明かりに照らされた庭園が広がっていた。
冷たい夜気が頬を刺す。
目の前には石灯籠の間を縫うように伸びる道、そして本殿に続く連絡通路と本殿が見えた。
良し、外に出れたのはラッキーだ。このまま、境内を抜けて、鳥居の下から石段を下りて学校へと──。
俺は助かるのだ。
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