第9話

 俺とナズナは、あの荘厳な庭園を後にして、ナズナの家へと戻っていた。

 そこにある、長い長い廊下を進みながら、俺は、先ほどの庭園から感じた視線について考えていた。


「やっぱり、ここさ。何かいるじゃないのか?」

「うーん。いるとしたら、神様ですかね?」


 ナズナは笑みを浮かべていた。その表情からは、彼女が俺の話を本気にしていないことしか読み取れない。


 しかし実は、今も何かどこからかの視線を感じる気もした。

 …いや、これはさすがに考えすぎかもしれない。

 きっと、おそらく。たぶん。


 俺はナズナに続いて、先ほどまでいた、ナズナの部屋へと戻った。

 ナズナの部屋で、俺は畳に腰を下ろしていた。

 しかし、ここにいてもどこからか何かが俺を見ているような気がする。


「何かいるような気がする。」

「もう、先輩。絶対、気のせいですって。」


 ナズナは俺の言っていることに意を介さない。いつもの調子は変わっていないけれど。

 先ほどから、俺のことをだろう。

 気さくに俺へ話かけてくる、ナズナが健気な気もする。


 その時だった。


「先輩、そういえば…。」


 ナズナの声が遠く聞こえた。なんか、とてつもなく眠い。

 これは尋常ではない。俺は、突然の強い眠気に襲われた。


「ナズナ、なんだか……。」


 言葉を最後まで紡げないまま、意識が遠のいていく。目の前がぼやけ、それが何事かを考えることもできない。頭がぐらり、畳に倒れ込んだ気がした。



 俺の目が覚めた時、見慣れない天井が目に入った。

 格子状に組まれた古めかしい梁。木造家屋らしい綺麗な木目の板。そして俺は、ナズナの部屋の畳の上で横になっていた。


「あっ、先輩。目が覚めましたか?」


 耳元で聞こえたナズナの声に、ゆっくりと体を起こす。窓の外を見やると、いつの間にか真っ暗だった。昼過ぎだったはずが、もう夜だ。


「何時だ……?」


 スマホを確認しようとポケットに手を入れる。少なくとも、夕方は終わっている時間だった。とはいえ、深夜ではない。


 ということは、俺はそろそろ帰らないと──。


「ちょうどお風呂の時間ですよ。」


 考えを巡らせる間もなく、ナズナはそう告げて襖を開けた。俺について来い、ということだろう。

 まだ頭がはっきりとせず、頭が重い。それにしてもどうして、こんなに眠くなったのだろう。


「ナズナ、俺。そろそろ、家に…。」

「今からお風呂、それから夕食です。」


 その俺の言葉を、ナズナが遮った。

 まるで最初から決まっていたことのように。

 そのどこか強い言い方に、俺は一瞬言葉を失う。断ろうとしたが、寝起きの頭では、うまく反論の言葉が見つからない。


「でも、遅くなるし……。」

「大丈夫ですよ。むしろ、今の先輩にはしっかりと体を温めてもらった方がいいです。」


 ナズナの声には芯がある。まあ、そう言えばあの美味しかった昼食も、彼女が作ってくれたのだった。アレを頂いたあとに、彼女の提案を断ることは失礼になるかもしれない。

 それに確かに、寝起きの頭は、まだぼんやりしている。


「分かった。でも、その後は本当に…。」

「はいはい。先輩。」


 彼女は、俺の回答に意を介さないように、廊下を進み始めた。

 俺はナズナの後を追った。


 ナズナの家。その長い廊下。

 木造の廊下を歩いていると、その足音が、やけに響くような気がした。

 まだ頭の中が靄がかかったように重い。


 目の前を進んでいるナズナは、嬉しそうに話しかけてきて…。

 いや、スキップでもしているかのように軽やかに進んでいる。


 今の状況は、ナズナの術中にはまっているような気すらしてきた。

 しかし、その思考すら、朧げな思考の中へと埋もれていく気がする。


 そんな感じで廊下を進んだあと。


 やがて、ナズナは大きな引き戸の前で立ち止まった。

 材料はヒノキだろうか?

 木目が美しい。表面も艶やかで清潔感に溢れていた。


 これはまさにあるべき木造建築物という感じだった。


「こちらです。」


 彼女がそう言ってながら、その木の引き戸を開けると、そこには想像を超える広さの脱衣所。

 高級旅館のような雰囲気に、圧倒された。

 安っぽいものではない。高級そうな材木を贅沢に使用した感じの部屋。

 そこにある洗面台も、職人が作っているかのような雰囲気。

 広めの鏡、整然と並べられた籠、木製の棚。そして清潔な脱衣かご。全てが完璧に整えられていた。


「浴衣は籠の中にあるやつを使って、お着替えください。今の服は籠にいれてくださいね。私が洗濯して後からお渡しします。それと、お風呂上がりは昼食を食べた大広間へきてくださいね!」


 女将さんのようにナズナがそう俺に話かけてくれた。


「えっと?まさか、服を洗濯してくれるのか?」

「はい!」


 えっと、あの。その…いいのか、それ?

 

「…。」

「先輩?」


 彼女はじっと見つめてきた。

 いつになく、強い意志を感じる。その勢いに釣られて、俺はつい頷いた。

 良くはないけど、まあ、いいや。


 それになんだか…。今の俺は、複雑なことを考えることが面倒で億劫だった。

 頭が重く、まるで催眠術にでもかかったかのように、ナズナの言うとおりに動いている自分がいた。


「先輩、大広間までの場所は分かりますか?」


 その場所なら覚えている。昼食を食べた大広間。

 ここから、そこまでどうやって行けばいいのかは、謎だけど…。

 まあ、なんとかなるだろ。


「迷わないように、後からご案内しましょうか?」


 ボケっとしていると、ナズナが聞いてきてくれた。


「いや、大丈夫だ。」


 そう答えはしたものの、この広い屋敷で本当に迷わないだろうかと、気が気でない。


 しかし、なんかそこまで彼女に負担をかけることが嫌で…。

 ようやくその答えだけを口にした。


「分かりました。では、ゆっくりとお風呂をお楽しみください。私は夕食の準備をしておきますので。」


 そう言い残して、ナズナは去っていった。廊下を歩む足音が次第に遠ざかり、やがてシーンした静けさが脱衣所に満ちた。


 …ああ、疲れた。


 俺は、寝起きの疲れというものを十二分に感じていた。


 改めて、周囲を見る。どうみても、ここは旅館だった。

 もし、あの風呂に向かう木製の引き戸の上に、銭湯らしい暖簾でも掲げられて、男湯、女湯と書いていたとすれば…。もはやそれは完全に大浴場といえるほど。


 実のところ、まだあの見られているような気配はある。

 しかし、ここまでくると慣れもあってか、その感覚は広く薄く広げられて、無視できるようなものになっていた。

 たしかに、気のせいだろう。


 …さてさて。

 俺はナズナに言われた籠のなかに、衣類を入れ、スマホと財布を入れた。

 そして、脱衣所から、さっさと浴室へと入ることにした。


 木製の引き戸を引く。


 そこはまるで別世界のようだった。


 大理石の床、木の温もりを感じる腰掛けがある。広い浴室の天井には、古い様式の梁があって、風情というモノが感じられる。


 もはや、浴室というのにはあまりにも広すぎて、まさしくここは大浴場だった。


 そして、この大浴場には、広い窓があって、そこからはあの庭園が見えた。

 月の明かりに照らされている庭園がとても美しい。

 まあ、さっきからの視線のようなものが庭園からきていることを考えると、あまりそちらのほうを見たくなかったが。

 

 湯気が立ち込める中、一目散に俺は湯船に身を沈めた。


 ああ、いい湯だな…。


 この湯につかっていると、いつの間にか疲れが湯へと流れ込んでいくかのよう。

 そして、自分がナズナのペースに完全に飲み込まれているという感じも、監視されているかのような視線も…。

 それらの嫌な全てが、この湯船とともに消えていくように感じた。


 俺がリラックスの極みに達しようとしたとき。


 視線。

 あの庭園で感じていた感覚が、再び強く俺を支配した。


 反射的に周囲を見回す。


 もちろん、そこには誰もいない。高級な造りの浴室には、俺以外の気配など感じられなかった。

 広い窓から先の庭園には、月明かりが差し込んでくる。俺が見える限り、そこには絶対に誰もいない。


 しかし俺は、見られている。間違いない。

 その感覚がこれまでになく…。いや、あの庭園で感じたように感じた。


 だめだ。このままだと。

 そのまま、入浴を中断する。

 リラックスモードから一気に警戒中へと移行していく。緊張からか、寝起きでぼやけていた頭がキリキリと動き出していることを感じた。


 …動くか。

 俺は、この湯船から体を上げた。

 

 周囲を見ながら俺は、脱衣所へと戻る。


 脱衣所には誰もいない。

 しかし、見られている気配は続いていた。

 ただ、先ほど湯船に浸かっていた時よりは強く無い気もする。


 一目散に俺は、籠の中から用意された浴衣を取り出した。白い浴衣。手に取ると柔らかな綿の肌触りだ。


 手早く、俺はそれを身に纏う。


 浴衣姿となった俺は、先ほど自分の衣類を入れた籠をみた。


「あれっ?」


 中身がない。もうナズナが回収したのか?

 いやいや、それどころか、財布もスマホもない。

 

 特に、スマホは死活問題。

 動画が………。いや、連絡がとれない。


 スマホと財布については、ナズナと合流して聞いてみることにして…。

 俺は、脱衣所から出ることにした。


 ただ、そのころには視線の気配は、どこか微弱になっているようだった。

 だけども、ここで一人でいるのは、とても嫌だった。


 大広間へ行こう。

 俺は廊下へと出た。

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