第23話

爪が、首筋に深く食い込んでいく。

知らなかった。喉を締められると、こんなにも顔が熱くなるなんて。

まるで、焼けるようだ。


えづくたびに酸素が飛び出し、肺ががどんどん萎んでいく。

跳ね除けようと田中の腕を掴むが、信じられない力で、その両手はさらに押さえつけてくる。


――こんなことなら、涼介たちに一緒に来てもらえばよかった。


走馬灯ではなく、後悔ばかりが頭をよぎるあたり、やっぱり僕はどこまでも自分本位な人間なんだと実感する。

そんな自己嫌悪をぼやかすように、耳鳴りがじわじわ広がっていった。

視界の輪郭が薄れていく。世界が遠ざかる。もう自分とは関係ないんだと諦めるような感覚が、胸の奥に広がった。


――そのせいだろうか。妙に、すべてが客観視できる。


田中に言った言葉。あれは、最後の一言を除けば、ほとんど自分に向けていたものだ。


人生というゲーム。それをクリアするために必要な要素さえ身に付ければ、すべては万事解決すると信じていた。

極めて単純に設定したルールは「自己責任」という便利な言葉で片付けられたし、それを身につけさえすればいい、と思考をパターン化することで、前に進む足取りは早くなった。


――しかし、違った。


ステージが進むたびにプレイヤーは消え、難易度は無茶苦茶になり、設定すら破綻していく。

突き進んだ先にあるのは、誰もいない、破壊し尽くされた世界。

最後頭上に現れるのは「ゲームクリア」ではなく、きっと「ゲームオーバー」の文字だろう。


その時には“強くてニューゲーム”も“ネクストステージ”もありはしない。


その結論に至った瞬間、僕は心底震えた。


涼介や澪君。そしてクラスメイトたちと関わる中で得た、価値観を丸ごとひっくり返す辛い気づき。

それはきっと、田中にとっても同じだろうと思った。

だって、彼と僕は、本当に似た者同士だから。


――そうして伝えた結果が、この通りだ。

まさか、首を締める程怒るとは、思ってもみなかったけど。


ああ、でも。


本当に、なんて酷い顔なんだよ。コイツ。

口元は千切れそうなほど横に引きつっている。

しかしその目は、はぐれた親を探す、迷子の子どもみたい。


怒るのか、笑うのか、泣くのか――どっちかにしろって。


田中の腕へ掴んだ僕の手は、徐々に力が抜けていく。


もう、ダメかな。


そう思った時。せめて最後に友達として、何かやってあげれる事は無いかと考えた。


「迷子の子ども」


その言葉が、ふたたび心に浮かぶ。


迷子。

そうか、こいつは今、迷子なんだ。

なら、安心させてやらなきゃな。


その瞬間、僕は残った力を振り絞り、肩を掴む。

そして、継ぎ接ぎに割れたガラス。その表面へ顔を押し付けるように、そっと彼を抱きしめた。


「な……何、してんだよ。お前」


パッと、食い込んでいた爪が離れる。

そのまま床に膝をつき、最初に大量の唾が溢れ、掃除機みたいに勢いよく息を吸い込む僕。


萎んでいた肺が突然膨らんだせいで、また盛大に咳き込んだ。


そんなことを数度繰り返したあと、ようやく言葉が出るようになり、ぜいぜいと息を弾ませながら言い返す。


「それは……こっちのセリフだ、馬鹿。殺す気かよ」


その言葉が届いた時、田中の目からポロリと、涙が溢れた。

それを見て、僕は呆気に取られる。


「な、なんでお前が泣くんだよ......」


「う、うるせぇ。泣いてねぇよ」


田中は必死で目元を拭うが、堰を切ったように涙は止まらず、顔は真っ赤になる。

しばらくして、それがどうしようもなく可笑しくなり、僕は廊下まで響きそうな笑い声を上げながら、ぐっと肩を抱き寄せた。


「なんだよ」


「なんでもだよ」


そうしてひとしきり笑ったあと、掴んでいた肩を離して床に倒れ込む。

ヒリッとした痛みが首元を走る。そこへ触ると、指先にかすかな赤い血がついていた。

どうやら田中の爪が、皮膚を裂いていたらしい。


「ごめん、悠」


その謝罪に、僕は手を振る。


「全然。別に大丈夫だよ」


「そうじゃ無くて。いや、首絞めたのもそうなんだけど」


慌てた様子の田中。必死に言葉を探すその様子を見て、助け船を出すように「もういいよ」と告げた。


「いや、よくねぇだろ」


「良いって。大丈夫。別に死んで無いし、ちょっと怪我しただけだし」


寝ていた体をおこし、田中と同じ目線になる。

そうして座ったまま、壁に貼られた切り絵を眺めた。


「コレ、凄いだろ? 佐川君、張り切っちゃってさ。最後なんて細部も自分がやりたいとか言い始めちゃって」


「へぇ」


気のない返事に、僕は首筋をさすりながら溜息をつく。


「いつまでボーっとしてるんだよ」


ほんの軽く、僕は拳で田中の肩を突いた。

「いや.....」と頭を振って、目元を押さえる彼。


「俺、マジでお前を殺そうとしてた。ここまでやるつもり、無かったんだ。ホントどうか、してた」


その後流れる沈黙。鼻を啜る音だけを隣で聞きながら、僕はどう声をかけるべきか悩んでいた。


そんな時、鹿島さんと話した「性悪説」がふと頭に浮かぶ。

あの時の空気を思い出しながら、僕は静かに笑った。


「いいんだよ。人間なんて、そんなもんだろ」


「……は?」


「僕だって、逆の立場なら首を絞めてたかもしれない。お前と同じで、嫉妬深くて人を見下す癖があって、でもすぐ傷つくんだ」


田中は何も言わずに俯く。


「何、耳でも痛そうだけど」


「うるせぇよ」


僕らは、ぎこちなく笑い合った。

目の前に佇む猫の優しさに見守られながら、そのまま続ける。


「多分、それが普通なんだ。人は善い生きものとして出来ていない。悪い方へと流れていくから」


「でも、お前は止まれた。それだけで十分だろ。

きっとお前が積み重ねてきた経験には、“人“であるためのルールがあったんだ。それは単純に数値化できる価値観じゃなくて、もっと複雑で不合理なものだと思う」


首を少し傾けると、彼と目が合った。

ゆっくりと、無意識に微笑む。


「それに、僕は救われたんだ」


あの時、鹿島さんと話して出なかった答え。

それが今、こうして口にできた気がした。


「まぁ全部、ある人から教わったことなんだけど」


しかし、込み上げてきた気恥ずかしさに耐えきれず、そう言って顔を背ける。

田中は「マジかよ」と呟いた。


「ここまでカッコつけといて、それは無いわ」


「うるさい。黙れって」


僕らはまた笑い合う。今度は、ちゃんと“友達”みたいに。

しばらくして田中が笑みを消し、申し訳無さそうに口を開いた。


「あのさ。悠の成績追い抜いた時、塾のトイレで悪口言ったの。……あれ、お前の言う通り、狙ってやったんだ」


「やっぱりそうか!」


思わず力いっぱい、隣の背中を叩く僕。


「痛って!」


驚いたようにこちらを向く田中。


「何すんだよ! 許してくれる流れだっただろ!」


「馬鹿か! それとこれとは話が違う! ちゃんと謝れって! なぁなぁで済むと思うな!」


ケチ臭いだの性格が悪いだの、語彙力の乏しい口喧嘩をぶつけ合い、

やがて言葉が尽きた頃、二人して深く息を吐く。


田中は目元を拭いながら、何かを思い出すように僕へそっと尋ねた。


「なぁ、最後に一つ聞いていいか?」


「なんだよ」


まだ言いたいことはあったが、その真面目な表情に一度溜飲を下げる。


「でもやっぱり、この世は競争だ。順位もあるし、勝ち負けも存在する。

悠は、これについてどう思うんだ?」


僕は目を閉じ、なるべく深く考えず、思ったままの事を喋るよう努めた。


息を整え、はっきりと口を動かす。

思いを前へと、乗せるように。


「それに関しては、僕も同意見だよ」


少し間を置いて続ける。


「でも、その順位や勝ち負けの基準を決めるのは、世の中じゃなくて自分自身だと思う。

たとえ他人から“負け犬”と言われても、自分の中で満足しているなら、それでいい」


「……強いな、それ」


「だね」


自分で言っておいて、難しいことだなと思う。

けれど、これが今僕が抱く“新しい答え”だった。


「でも簡単な時もあるよ。たとえば明日の勝ち負けは、文化祭でどれだけ楽しめるか――とかね」


「それは簡単すぎるだろ」


「いや、田中はどうだろ。お前、しれっとクラスのみんなから嫌われてるし」


「は!? え、マジで……?」


「気づいてなかったんだ」


その後、また軽く揉め合って。

自転車の鍵を探すという当初の目的を思い出す僕ら。

二人で探していると、見回りに来た先生に見つかった。

「まだ残ってたの?」と軽く注意され、顔を見合わせる。


その時窓ガラスに映った、はにかんだ笑顔。

それに気が付いたのは、多分きっと、僕だけだった。

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