2.疑心暗鬼のアヴァロン 〜初心者はマーリンの夢を見るか?〜 その1

 あの地獄の初日から、一ヶ月が過ぎた。

 人間という生き物は、恐ろしいほどに環境への適応能力が高いらしい。あれほど「二度と来るか」と心に誓ったはずの俺、相田 潤は、今や週4でボードゲームカフェ『チェックメイト』のカウンターに立っていた。


 もちろん、それは決して俺がこのカオスな職場を気に入ったからではない。

 全ては時給1500円という、麻薬のような魅力のせいだ。月末の預金残高を眺めてニヤニヤする快感は、いかなる精神的苦痛にも勝る。たぶん。


 そしてこの一ヶ月で、俺はバイトとしてのスキルを飛躍的に向上させた。


「お客様、リアルファイトは固くお断りしております! その拳は、盤上のコマを進めるためにお使いください!」


「お客様! ダイスに殺気を込めるのはおやめください! 物理法則は変わりません!」


「お客様!『ウノ』でドロー4を出された腹いせに、相手のドリンクにタバスコを入れるのは犯罪です!」


 もはや俺のツッコミは、この店の日常風景の一部と化していた。

 常連客たちも、俺の制止を「いつものやつか」くらいの感じで聞き流すようになり、ある種の様式美すら生まれつつある。これは成長と呼んでいいのだろうか。いや、断じて違う。



 そんなある日の夜だった。

 その日は珍しく、常連客の集まりが悪かった。いつもなら開店と同時に雪崩れ込んでくるはずの権田さんや冴子さんの姿もない。カウンターの向こうでは、店長の神楽坂さんが優雅にワイングラスを磨いている。


「平和だ……」


 思わず、心の声が漏れた。

 客のいないカフェ。穏やかに流れるジャズ。これこそ俺が夢見たバイトの姿だ。このまま誰も来なければいいのに。


 カラン。


 フラグというものは、立てた瞬間に回収されるのがこの世の理だ。

 重いドアを開けて入ってきたのは、やはりというべきか、あの二人だった。


「店長! 今宵こそ、我が豪運が盤面を支配する日だ!」


 筋肉ダルマこと権田さんが、いつものように勝利宣言をしながら入ってくる。


「あら、ごきげんよう。その筋肉、まだ存在していたのですね」


 氷の女王こと冴子さんが、美しい微笑みの裏に毒を隠して続く。


「んだとコラァ!」


「あらあら、お元気そうで何よりですわ」


 もはや挨拶代わりの口喧嘩だ。俺は慣れた手つきで二人の定位置にグラスを置き、絶望ブレンドと勝利のハーブティーを準備する。

 やがて、他の常連客もちらほらと集まり始めた。だが、いつもより一人少ない。テーブルを囲んだ彼らは、互いの顔を見合わせた。


「む、一人足りんな」


 権田さんが腕を組んで唸る。


「本当ですわね。これでは、始めたいゲームが始められませんわ」


 冴子さんがつまらなそうにため息をつく。

 その場の空気が、わずかに停滞する。どうするんだ? このまま解散か? それはそれで平和でいいぞ。俺は心の中でガッツポーズをした。

 その瞬間、カウンターの向こうでグラスを置いていた店長が、ニッコリと、本当に悪魔のようにニッコリと笑って、俺の方を振り向いた。


「……潤くん」


 嫌な予感がした。背筋を冷たい汗が伝う。

 店長の目は、獲物を見つけた蛇のように細められていた。


「君も入れば、人数ピッタリだね」


「へ?」


 俺は間抜けな声を出した。聞き間違いか? いや、そんなはずはない。この人の笑顔は、常に何かの始まりを告げるゴングなのだから。


「いやいやいや! 無理ですって! 俺、バイト中ですし! 接客とかドリンク作りとかあるじゃないですか!」


 俺は必死に抵抗した。プレイヤーになったら仕事ができない。至極まっとうな意見のはずだ。

 しかし、店長は動じない。


「大丈夫だよ。ゲーム中は、ドリンクはセルフサービスにするから」


「そういう問題じゃなくて!」


「それに……」


 店長は人差し指を立て、悪魔の囁きを続けた。


「これも『仕事』だよ。もちろん、時給も発生する」


 ……時給も、発生する。

 その言葉は、まるで呪文のように俺の脳に染み渡った。

 時給1500円。ゲームに参加するだけで、あの地獄の労働と同じ対価が得られる。座っているだけで、だ。


 俺の脳内で、天使と悪魔が激しい議論を始めた。


『やめとけ! こいつらのゲームは遊びじゃない! 戦争だぞ!』


『でも時給1500円だぞ? 楽して稼げるチャンスだ!』


『精神が持たない! お前はただのツッコミ役でいろ!』


『金だ! 金が全てだ!』


 わずか数秒の葛藤の末、俺の心は悪魔に軍配を上げた。


「……わかり、ました」


 俺が力なく頷くと、権田さんが「おう、待ってたぜ!」と俺の肩をバシンと叩いた。痛い。マジで痛い。骨が軋んだ音がした。

 冴子さんは、ふふ、と意味深に微笑んでいる。


「お手合わせ、光栄ですわ。潤くん。……初心者だからといって、手加減はいたしませんからね?」


 その言葉に、俺は改めて自分の選択を後悔した。


 だが、もう遅い。俺は店長に背中を押され、まるで闘牛場に引きずり出される牛のように、地獄のテーブルへと着席させられたのだった。

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