第49話
第49話 ブラックスート
彼らは黒いスーツを着ない。
むしろ「姿のなさ」を制服にしている。名前を捨て、足音を消し、指紋の代わりに煤(すす)だけを残す。
BlackSoot(ブラックスート)。
合言葉は簡単で残酷だ——「人は燃える。灰は金になる」。
燃えるのは怒り、興奮、恐怖、嫉妬。
燃やす手段は、動画サービスの停止、出版・流通の遅延、データベースの抜き取り、広告網の汚染。
灰とは、個人情報、裏帳簿、アクセス権の切れ端、誤解を増幅させる断章。
それらを貨幣に換えるのが、彼らのビジネスモデルだった。
灰の中に、私の住所も混ざっていた。
炎上の最中に貼り付けられた写真、わざと角度を歪めた切り抜き、知らない誰かの笑い声。
鍵を替え、携帯番号を捨て、部屋の照明を変えた。夜が深まるほど、胸の中で粉塵爆発が起きるみたいに息が詰まった。
——だから私は、煙突から折ることにした。
アカリは、大物に挑む為に由紀にも声をかけようと考えた。
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地図を描く
三週間、私は眠りを刻むように短くして、呼吸を長くした。
必要なのは地図だ。彼らの祭壇、搬入口、逃走経路。
OSINTで拾えるものは砂粒でも拾う。登録者情報のくせ、サーバ証明書の世代交代、広告タグの揺れ方、JA3の似姿、TTLの息遣い、週末だけ濃くなる闇市の交通量。
断片を並べると、儀式の時間が浮かぶ。——UTC 03:00、灰の放出。放出七分後、清掃と再配備。
宗教のように正確な03:07Z。そこに私は耳を寄せる。
蜂の巣(ハニーネット)を十六台。
見た目は脆い「配送管理ダッシュボード」、古い「在庫API」、更新が止まった「CMS」、雑に見せかけた「B2Bファイル置き場」。
どれも一歩目だけは本物らしく。二歩目からは砂地だ。
砂に落ちる足跡は、粒度、圧、リズム、方向——すべてを記録する。
「アカリ、準備完了。疑似在庫の数値、あなたが嫌がるくらいリアルにしておいた」
白井由紀の声は、冷めかけのコーヒーみたいに静かだ。
「ありがとう。あとは、呼吸を合わせるだけ」
由紀は首を傾ける。「些細なミスを拾うのが、私の役目だから」
アカリはうなずき、キーボードに指を置いた。爪の裏に残る煤が、キーの感触を少しざらつかせる。
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最初のノック
最初のノックは、ほとんど礼儀だった。
脆弱性のリストを上から撫でるだけの前座。けれど、握手の仕方に人柄が出る。
時刻は02:11。まだ儀式前の小手調べ。
囮の「配送ダッシュボード」へ、認証をなぞるような触れ方。
次第に深さが増し、二段認証を装う偽物に彼らの中継がかかる。
中継の握手が一瞬だけ遅れる。その遅れが、彼らの肺活量だ。
“soot-13”“soot-17”“soot-21”——私の付けたタグが光る。
蜂の巣の温度を少しだけ上げ、入口のひとつをわざと渋滞させる。
苛立った彼らは別の入口も叩く。負荷が散り、C2の吐息が深くなる。
ログの端に、彼らの合言葉が滲んだ。
「……ここ、文字化けしてる」
由紀が画面に寄る。「SJIS混入。解析器の自動判別、一時だけ切り替えて」
アカリは数式のように短い手つきで切り替え、滲んでいた文字が立ち上がる。
> soot-ldgr: push@03:00Z, drop@03:07Z, reserve: 250k
soot-ldgr: audit: ok
ldgr(ledger)。彼らの会計台帳。
——灰はどれくらい、どの口から、どこへ流れたのか。
帳簿さえ押さえれば、灰は証拠へ変わる。
胸の奥で、粉塵が少しだけ沈んだ。
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波
02:32。波が来る。
囮群に一斉の重みが乗る。攻撃は美しい。美しいものには型がある。
DNSに細かい揺らぎ、広告網に微量の毒、配送APIの遅延の種、動画配信の息止め。
すべてが偶然に見えるよう配置されている。
アカリは偶然ごと瓶に詰める。揺れ方、毒の濃度、呼吸の止め方。
瓶のラベルには時刻と脈拍を書いた。
DDoSが始まる。咆哮のようなノイズ。
アカリは疑似の岸を作り、波を受け流す。
舟の上に立つ感覚——足裏で、波の周期を数える。
間合いを測り、舟底に薄い鉛を貼る。波が少し変わる。
指紋が瓶の内側に汗のように残る。私は蓋を閉め、封緘の印を押す。
> soot: delay?
soot: alt route now.
soot-admin: focus. ledger first.
彼らは焦らない。焦らないふりが上手い。
儀式の時刻が近づくほど、文面は短くなる。
短いのは決断の兆候だ。
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砂の鍵
囮の「倉庫API」に侵入した“soot-21”が、権限昇格の鍵を回す。
箱庭の中では成功する。だがそれは、砂に立てた鍵。
鍵が回った感触の直後、手袋の繊維が一本、こちらの指に絡む。
アカリはそれをやさしく巻き取る。
向こう側で、人間の時間がかすかに動く——温め直したピザの箱、冷蔵庫の扉、肘で押す古い椅子。
「アカリ、桁区切り」
由紀が呟く。「欧米式と日本式が混在。三人、交代制の会計担当」
地理の輪郭が浮かぶ。時差の重ね合わせ。
三つの朝が、同時に白み始める。
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03:00Zの鐘
03:00Z。儀式の鐘。
BlackSootは灰を放出する。
——が、その灰は、私が事前に写経しておいた写しへと指差しを置き換えられている。
アカリは偽造はしない。複製だけをする。
ハッシュ鎖ごと等写し、偏りが出ないように数秒ごとの時刻署名を打つ。
写しは、そのまま法の温度へ送られる。
途中で壊れないように、回線を数本束ね、切替の練習を何百回もしておいた。
> soot-admin: drop@03:07Z, clean path.
soot: got it.
soot: 250k reserve intact.
03:07Z。清掃。
アカリはここで音を消す。
こちらの存在を悟らせない沈黙。
沈黙にも型がある。
「何もしていない」を、何もしていないように見せるには、何かをする必要がある。
私は何もしないための何かを、丹念に行う。
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逃走経路
彼らは逃げる経路を三重に持っている。
外殻、換装、焼却、再配備。
アカリは追わない。追うふりも、しない。
代わりに、逃げたことの痕跡だけを拾う。
TLSの握手の微かな癖、時刻のぶれ、関数の丸み、ログに混じる母国語の手癖。
それらは人間へ結びつく。
人間は、朝に出勤する。
「ここ、日曜の朝にだけ数字の書き方が変わる」
由紀が指で示す。「会計の交代、日曜」
儀式は宗教だ。宗教にはカレンダーがある。
私はカレンダーの余白に、薄い赤鉛筆で印をつける。
印はやがて、住所になる。
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短い会話
> AKARI: 灰は、もうあなたたちのものじゃない
soot-admin: queen of ash?
AKARI: 灰は人間の肺を殺す。あなたの肺も
soot-admin: catch me if you can
アカリは追いかけない。走る方向を、少しだけ傾ける。
彼らが必ず踏む石を、ほんの少しだけ湿らせる。
靴底が、微かな痕跡を残す。
痕跡は、朝へ伝わる。
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連鎖
03:19。
瓶の中の指紋が、連番を作り始める。
ldgr(会計台帳)とreserve(予備)とdrop(放出)の三点が、同じ書記の手癖で結ばれる。
一度、二度、三度。
十分な回数が重なるまで、私は何もしない。
由紀が息を呑む音。
モニタの隅に、朝焼けの色温度が滲む。
> soot: audit?
soot: ok.
soot-admin: move to cold.
——冷蔵庫にしまうつもりだ。
なら、しまう前がいい。
アカリは封緘の帯を引く。
写経の写しは既に走っている。
封緘の帯は、人間の朝に結びついている。
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ドア
世界のどこかで、ドアが開く音がした。
ベルリン、ビリニュス、札幌、名古屋。
どこかの薄暗い廊下、硬い床、安い蛍光灯の唸り。
「警察です」
言語は違っても意味は同じ。
BlackSootの端末が、水平線になっていく。
アカリはグラフが平らになるのを見つめる。
心臓の鼓動が、二拍遅れて静かになる。
> ——複数拠点で一斉摘発。
——データ流通の仲介者、押収。
——灰の「帳簿」復元へ。
アカリは椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐く。
喉の煤が少しだけ剥がれ落ちて、胸の奥に冷たい水が流れ込む。
「アカリ」
由紀が戻ってくる。目の下に、私とおそろいの小さな影。
「SJISの件、間に合ってよかった」
「助かった。あれが初動をつないだ」
「次、桁区切りのパターンはテンプレ化しよう。人が数字を書く癖って、本当に地理が出る」
アカリは笑う。「人は、灰にも癖をつけるから」
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後始末
勝った夜ほど、細かい仕事が増える。
蜂の巣の片付け。疑似データの廃棄。写経の封印。
「何もしない」ことを証明するための、膨大な作業。
アカリは一枚ずつ封筒を閉じ、ラベルを書く。
誰も読まないかもしれないラベル。けれど、書かれていることが大切だ。
机の上の水はまだ冷たい。
窓の外、朝の光が煤を洗い流す。
キーボードの隙間にたまった黒い粉を、私はひとつひとつ吹き飛ばす。
壁紙の焼け跡は残る。それでも、呼吸は少しだけ楽になる。
アカリは画面の端に、短いメモを打ち込んだ。
Target48 ― 集団全逮捕
NextTarget選定中
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余韻(ログ抜粋)
> 02:11Z [trace] hello (discovery)
02:32Z [flow] surge ↑(分散)
02:44Z [hive] pivot(擬似倉庫)
02:51Z [anml] 指紋瓶:封緘
03:00Z [ldgr] push(写経導通)
03:07Z [ldgr] drop(清掃)
03:19Z [cold] move(未遂)
03:27Z [door] open
——灰は、もう彼らのものじゃない。
儀式は終わった。煤は冷え、金にならない。
朝は、いつだって、呼吸のために来る。
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