第八章 朝の構内
ドアが開くと、空気は名前を変えた。夜の湿りが、朝の冷えへ。黒い層のなかへ指を入れていた誰かが、そっと布を返すみたいに。
ホームの白に初めて影が落ちる。影は、僕の足もとに従ってくる──剥がれず、追い抜かず、ちょうどいい重さで。
まだ≪仮≫の手触りが残るプラットフォームの、いちばん端に「未明通り」と書かれた黒い箱がある。
文字はさっきまで瞬きに追いつけず、読み上げに遅れをとっていた。
それが、ふいに一拍ぶんの余裕を取り戻し、音を立てずに置きなおされる。白は白のまま温度を帯び、黒は黒のまま境界線を濃くする。
僕は息を吸い、切符を胸に押し当てた。パンチ穴は残り、しかし文字は戻っている。
「望月アヤ」。紙は弱いのに、その弱さで、ここまで運べる。
胸の裏側で駅務係の声がかすかに復唱した──「あなたの名は、切符の形をしている」。展示の札ではなく、出口の矢印として。
列車は、息を吐く音だけを残して、やがて離れた。
タイヤが濡れた床を渡る清掃台車が遠くでうなり、モップの水音が薄い音符を撒いていく。
ホームの端末は試験放送のように短く電子音を鳴らし、どこかでシャッターが一枚だけ開く。
徹夜明けの工事柵が軋む。朝の構内は、誰のためでもない音の譜面でできている。
階段をのぼる。足裏に、石の冷たさが戻る。
昨夜、窓が鏡であった頃の半拍のずれは、もう背中を押してこない。
今日のガラスは、ただのガラスで、僕の姿だけを運ぶ。鏡像は先に立たない。むしろ、僕の歩幅が、ガラスの時間を先に運ぶ。そう思うと、膝がひとつぶんだけ軽くなった。
踊り場の壁に貼られていた『ナイト・オン・ザ・プラネット』のポスターは、今朝は見当たらなかった。
剥がされ、紙の四角い跡だけが、そこに残っている。
糊がのこした曇りが、まだ夜の夢を吸い込んでは吐き返す。
ポスターの代わりに、定期券の案内が新しく貼られている。色の鮮度が高すぎて、目がまだ慣れない。夜の中では鮮やかさが刃に見えたのに、朝の中ではただのインクだ。
僕は袖口の糸を指先で整え、ひとつ息を置く。
改札前は、始発前の白い空白だった。駅員がひとり、掲示板の時計を見上げて、ペン先で何かをチェックしている。
制服の黒は夜の黒ではなく、布の黒。こちらの黒は、帳尻を合わせようとしない。
透明の障子みたいなゲートは、まだ半分眠っている顔つきで、青い矢印を消しては点ける。僕は胸ポケットから切符を取り出し、掌の真ん中に置く。
紙は薄い膜として指紋を拾い、穴の縁は乾いた銀色をして、まだ≪昨夜≫の縁を保っている。
ゲートに触れる。光が一度だけ瞬き、機械の喉奥が小さく鳴る。飲み込まれる感覚は来ない。
切符は呑まれず、ぽん、と軽く押し返される。僕はそれを受け取り、胸の高さに上げて見た。文字はやはり「望月アヤ」。名は、ここでも通用する。昨夜みたいに、粉になって空気へ融けることはない。
紙を紙のまま持ち運べる朝は、思っていたより重たい。
「おはようございます」
声に顔を上げる。改札脇の小窓に、駅員の横顔が浮かぶ。
帽子の影に沈んだ≪彼≫ではない。頬の色が少し赤く、目の下に薄い隈がある。
こちらの駅員は、生身のひとだ。僕は会釈する。言葉が喉の手前でほどける。声にせずとも、挨拶は通じる。駅員は、眠そうに笑って、窓の内側のスイッチをひとつ触れた。ゲートの矢印は、はっきり青になる。
改札を抜けると、吹き抜けの空気が喉の奥まで落ちてきた。まだ冷たい。
売店はシャッターを半分下ろしたまま、棚の中のパンがビニール越しに鈍く光っている。自販機は品切れの赤いランプを隠して、白い光だけを漂わせる。
ベンチの端に、工事用の紙巻きメジャーが忘れられている。数字の黒が、眠っている。数えなくていい朝は、こんなにも静かだ。僕は、無意識に拍を取ろうとして、指先を止めた。数えずに立っていられる。それが、今朝の手触りだった。
ガラスの一面に、外の光がゆっくり立ち上がる。上がっていくでも、広がっていくでもなく、「立ち上がる」。一枚の紙の裏に指を添えて、そっと起こすみたいに。ほどなくして、駅名表が読める明度になる。
昨夜はいつまでも≪未明通り≫とだけしか書かれない黒い箱だった。その白の箱は今、別の名前を帯びている。
実在の地名だ。僕がいつも通学で見ている、地上の名。知らないふりはできない。文字は読み取られるためにある。僕は目を細め、読み、そして目を閉じた。たしかに、読めた。
ここで振り返れば、ステンレスの奥、ホームの端にRの影が立っているのかもしれないと思う。
振り返らない。代わりに、耳だけが遠くの音を拾う。地上のどこかで、低く重たい排気音が一度だけしずかに鳴り、すぐに止まる。
黒い車体の体温が、朝の冷えに吸われていくような音。こちらを見ないまま、見られている気配だけ残す音。
視線のいらない挨拶。彼女はいつだって、必要な分量だけの沈黙で合図する。
携帯を取り出す。画面の白は、初めて朝にふさわしい白だ。メモを開く。親指が、迷いなく打つ。
「今夜は≪乗る≫じゃなく、≪走る≫を選べますように。」
句点の位置で、呼吸が定まる。僕は保存を押し、画面を閉じる。
背中に、昨夜の残響がわずかにいる。〈I am the passenger〉──四語は、もう≪支配の拍≫ではなく、≪選べる拍≫として胸のどこかで温かい。
声に出さない。喉の奥で、それを何度でも言える。内側のマイクの前で、僕はもう一度だけ名を確かめる。「私は」。昨日よりも、短く、澄む。
エスカレーターは止まっている。階段を選ぶ。上りながら、ガラスの面にいちどだけ自分を映す。鏡ではない。息の白が、薄く付いて、薄く消える。昨夜の窓は、半拍先を示す教師みたいに先行した。
今朝のガラスは、ただの友人だ。並んで歩くだけの。歩幅が合う。音は合図しない。足音が、朝のリズムを作る。
改札の外に出ると、駅前の広場は、夢の殻をまだ少し身にまとっていた。生垣にかかった朝露が、街灯をやめたポールの先で固まる。
新聞の束が、腰の低いカートに載せられて、コンビニの前を通過する。タクシーの屋根の行灯は、薄く燃えて、やがて消える。どこからかパン屋の焼ける匂いが落ちてくる。
匂いは名前を呼ばない。けれど、匂いで思い出される名がある。胸ポケットを指で押さえる。紙の角が、また小さく熱を持つ。
ベンチに座り、切符を取り出す。パンチ穴に、昨夜吹き戻した字画の粉の記憶が沈んでいる。穴の縁は、もう痛まない。穴は、輪郭の練習台になっただけだ。弱さの穴が、輪郭を教える。
僕は息を吹き、紙片をゆっくり裏返す。裏は白いままだ。白は、朝のほうが信頼できる。
ふいに、肩にやわらかな重さ。振り返る。誰もいない。ただ、風が袖をめくっていっただけ。
袖口の糸をいじる癖は、まだ残る。けれど、数を数えなくていい。偶数で揃えずとも、階段を昇り、広場を横切り、信号に立てる。メトロノームは懐にしまったままで、胸の拍は自分の速度を選びはじめる。
駅名表にもう一度だけ目をやる。白は完全に朝の白になり、黒は完全に地上の黒になっている。そこに書かれた名前は、今朝に属している。誰の≪展示≫でもない。
僕は顔を上げる。足もとに落ちた影が、ほんの少しだけ前に伸び、やがて僕の歩幅と同じ速度で動きだす。
≪降りる勇気≫という言い方が、急に少し可笑しく思える。降りるのではない。
朝の文法へ、主語を運ぶのだ。降りるたびに主語は決まり、決まるたびに速度は選べる。
昨日、夜の窓の前で「私は」と言った一秒が、今朝の階段の角度を、少しだけ正しくした。
広場の端で、ゴミ収集のトラックがバックで鳴る。あの繰り返しは、昨日までなら神経に触っただろう。今朝は、街の拍に混ざるだけの音に聞こえる。僕は小さく笑う。
その笑いに、他意はない。名は、紙の形で胸ポケットに立っている。穴は残っている。残りながら、通用している。
振り返らない。けれど、どこかで黒い車の排気がひとつぶんだけ低く鳴り、まるで「今日のズレは、今日、この地上で合わせて」と言っているように聞こえた。僕は頷く。誰にも見せない頷き。
朝の構内は、もう背中に遠のく。道路に出る。一歩。もう一歩。息を合わせるのをやめて、息に歩幅を合わせはじめる。
〈I am the passenger〉。胸の内側の小さなスピーカーが、四語だけをやさしく鳴らした。
乗客という名は、侮辱ではない。今日の拍を選ぶ、最初の名だ。
僕は切符をポケットに戻し、肩の力をひとつぶんだけ抜いて、朝の構内をあとにした。
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