第五章 運転席は空いている

 隔壁の内側は、別種の夜だった。小さな照明は呼吸の浅い灯を一つだけ胸に点し、計器は正確そうな顔をして沈黙する。窓は他の車窓みたいに鏡にならず、名のない黒の層として外界を受けつけない。沈黙は教義ではなく、儀式の入口だ。触れると指先が少し湿る——そこに境界の温度がある。


 椅子は冷たい。拒絶ではない清めの冷たさ。ブレーキハンドルへ手を伸ばすと、研ぎ澄まされた小動物みたいに微弱な震えを返しつつ、なお応じない。「名にしか、応えない」——背後から一行だけ降りる。説得ではなく等号。名=動力。


 胸ポケットの紙片を親指で確かめる。「月アヤ」。刃に削がれ、まだ戻らない。紙は弱い、けれど弱さの枠でしか輪郭は立ち上がらない。耳の底で、低いベースが井戸の水位みたいに揺れ、〈I am the passenger〉の四語は今夜だけ、速度の譜面へ転写される。


 運転台の窓に、丸い影が寄る。玻璃だ。頬を貼りつけ、星のような瞳でこちらを見て、ポケットから銀の粉をつまみ出す。粉は、粉のまま字画のかたちをしていて、光に触れると「望」の稜線を示す。言葉は使わない。眉と頬で「落としたよ」と言い、子どもの掌をひらく。軽い。なのに骨まで重さが染みる。


 僕はそれを受け取り、切符を開く。欠けた孔の上で息を整え、小さく吹き戻す。紙粉はひらひらと踊り、紙の繊維へ吸い込まれる。輪郭が立ち、凹みの周りで光が立体の線を結び、「望」がゆっくり立ち上がる。紙は弱いから、こうして運べる。弱さのかたちでしか、世界は持ち歩けない。


 低音が定まる。拍は胸の拍子と和解し、蛍光灯は点滅をやめて白い沈黙を選ぶ。僕は切符に刻まれた名を指先でなぞる。望月アヤ。これは、いまこの瞬間だけでも、確かに僕の名だ。


 仕切りの小マイクに口を寄せる。銀の匂いが歯の根へ冷たく触れる。紙の上でいくらでも書ける名ほど、声にするのは遠い。けれど遠いからこそ、届いたときの輪郭ははっきりする。


 「……私は、望月アヤ。減速に入る」


 スピーカーは控えめに震え、車体の継ぎ目が一斉に深呼吸する。さっきまで半拍先を生きていた鏡像は、ふっと肩を落とし、画面の賑やかさをやめる。発話の熱で「語りえぬもの」の端がわずかに溶け、そこへ名が染みていく。


 「似合う」


 背後のつばの陰が、音のない拍手を一度だけ鳴らす。火はつけない。つけないことが、今夜の祝福のしるしだ。


 ガラスの外の黒は、遠くで灰にほどけ、その灰が薄い青を飲み、青は最初の白を生む。アナウンスが、こちらより先に目覚める。「──次は、未明通り。未明通りです」。表示がやわらかく点り、透明な箱のなかで朝が胎動を始める。


 ブレーキハンドルに掌を重ねる。今度は鉄が喉を鳴らして応える。制動は、歌の一行を切り上げるときの息の抜き方に似ている。〈……passenger〉という子音の端で、車体が呼吸を整える。Rは隔壁にもたれて腕を組み、靴底で床を一拍だけ刻む。合図。僕は軽く加圧し、闇の縫い目をほどかずに縫い直すみたいな速さで、進路を正す。


 丸窓の向こうで、玻璃が両手をひらく。抱きしめて、の合図。僕は席を離れ、仕切りを半身で抜け、薄い膜越しの抱擁をする。可愛い、と思うと同じ強さで胸が痛む。可愛さと切なさは、隣どうしに座っているから。


 「降りる勇気、って言葉があるけど」


 自分で呟いて、自分で可笑しくなる。勇気というより文法の選択だ。主語の角度ひとつで、世界の弾力は変わる。戻った名の重さを胸に分配し、僕は運転席へ戻る。


 未明通りの箱文字が、ようやく本物の白を帯びた。ホームの床には、影が正しく落ちる。展示棚の影たちは消えないけれど、影があることは照明が戻った証拠でもある。


 「ほら」


 顎で前方を示す声。命令でも説得でもない。等号の置き方だけだ。僕は軽く引き、軽く押す。列車は、名に応じて、正しく遅くなる。


 扉は、朝のほうへ開いている。僕の名は、紙の形でそこへ向かう。弱さを抱いたまま、正しい速度で。

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